011城目 40/山中城(城ヲタ的絶景編)
初日は小田原城と予定になかった石垣山一夜城をめぐり、最後は山中城。
ナビで確認すると、一夜城からは箱根新道を使えば30~40分程度なのですが、晴天の行楽日和で人出も多かったらしく、箱根新道へ出るまでの道がものすごい混みようで全然車が動きません(-_-;)。仕方なくお金払ってMAZDAターンパイクで山中城を目指します。
今朝は家を出たのも早かったため、ターンパイクで頭文字Dになりきる余裕もなく、高低差がある道なので途中何度か耳抜きしつつ連続するカーブに終盤ヘロヘロになって、やっとこさ山中城に到着(゜∀。)
しかし、こんな苦労もあの「障子堀」が見れれば屁でもありません。まずは城跡入口の売店で11城目のスタンプと案内パンフをゲットして攻城開始です。
山中城は100名城に認定されている北条の城の中で、最後に訪れる城になります。とりあえず三島市の山中城跡サイトからPDFを拝借し
こんな感じで三ノ丸堀から見ていって、西ノ丸 → 北ノ丸 → 本丸方面ヘと進んでいきます。
ではスタート。
まずは長さ約180m最大幅約30m、深さ約8mの三ノ丸堀沿いを歩いていきます。
三ノ丸堀の先には「田尻の池」と呼ばれる溜池。山城では水の貯えが生命線なので、ここは貴重な貯水施設だったようです。
右手の方には立て看板があり、現在二ノ丸近辺は工事中にて通行止めとのこと。んー残念。
平城に比べて史跡管理が難しい山城においては修復工事も含めて、ここまではよくある風景。山中城が凄いのはここから先です。田尻の池を抜けて、西ノ丸方面へずんずんと登っていきます。
「元西櫓下の堀」と呼ばれる堀脇を抜けると、いきなり現れました。
これがかの有名な「畝堀(うねぼり)」です。
単なる穴ボコではありませんw 逆に畝部分を残して掘り起こします。ガイドブックでは何度も見てますが、生だとやっぱり迫力が全然違う(;゚∀゚)=3
深い堀だけでも攻めづらいところ、畝を設けることで堀底で敵兵の自由を奪います。今は史跡保護から芝が張られていますが、当時は関東ローム層の土がむき出しだったため、一度堀に滑り落ちると脱出が難しかった…はずなのですが、後述します。
この西ノ丸の西側から東側へと、西櫓および西ノ丸の周囲をぐるりと回り込むように進んでいくと、さらに城ヲタ歓喜の絶景が広がります。
この城は、北条の本拠地小田原への東海地方からの敵国侵攻に備え、箱根の険を守る拠点として重要視されていた軍事城塞です。城ヲタとしてはこれらの畝を見ているだけで「当時の人たちは『こーんだけ畝作っときゃぁ、敵なんていちころだべさぁ』とペッタンコペッタンコ造ってたのかなぁ…」と勝手な妄想がどんどん広がっていきます。どうお伝えしたらよいか判らないのですが、畝ひとつあるだけで往時に生きた人たちの息遣いがより鮮明に伝わってくるというか。
それと自分が妄想する当時の人たちは、なぜかいつも言葉が訛っています(-_-;)
そして、この先の西ノ丸の東側には全国の城ヲタ悶絶ものの「障子堀」が控えており、ここで絶頂を迎えることにヾ(*´∀`*)ノ
障子堀は、形状としては畝掘りが複数列に並んだもので、元々土塁状の障害物を「障子」と呼び、その障子のある堀なので「障子堀」と呼んだとのことで、和室の障子に似てるからというのは誤った俗説だとwikiに書いてありました。自分的にはどっちでもw実際、障子に似てるし。
そしてこれだけの堀を張り巡らせた城塞に、いまや天下の大半を制した秀吉によって、小田原攻めの前哨戦として約7万人の大軍が攻め込んできます(詳細:三島市サイト(第220号)山中城合戦 戦国時代最大の攻城戦(平成18年9月1日号)|三島市)。守る城方は、わずか4千人。20倍近いの敵兵の前に畝掘・障子堀がどれだけの効果を見せたのかはわかりませんが、早朝の開戦からわずか半日で落城したと言われていることから、それだけの大軍の前には、苦労して築きあげた堀も大した意味を為さなかったものと思われます。
悲しき城フリークの自分としては、今回このような戦国史を経た憧れの山中城訪問が叶ったのは、まさに感涙ものの出来事でした。
ま、この後あらかた見終わって城跡から降りてきたら、違う涙を流すことになるのですけどねw
山中城後半へ続く。…けど、ある意味ここでクライマックス迎えてしまったので後半どうしよう…(-_-;)