番外編/久留里城(二の丸登城編)
そんなこんなで上総3城めぐり、まずは久留里城。
自宅からナビ通りに約2時間ほど車を走らせ、きみつの森に住む小さな動物「きみぴょん」がいる君津市のとある駐車場に到着。久留里城は山城になるので、目指す天守はここから徒歩で向かいます。
途中、二の丸にある資料館を経て、天守が建つ標高145メートルの本丸へいざ。
基本的には舗装されたアスファルトの坂道をひたすら登っていけば二の丸まで到着するのですが、並行して「城山探鳥路」があったので途中から右へ入ってそちらの道を歩いてみます。案内図の赤線のところ。
しっかりと道標もありますし八王子城のようなことにはならなそうです。そもそもそんなに距離ないしアスファルト道路と平行に歩いていけばよいので、方向音痴の自分でも迷わない自信あります(^_^;)
少し進むと「火薬庫跡」の碑。いわゆる硝煙蔵跡なのでしょうか?なにか説明板あると嬉しいのですが…。とりあえず先を急ぎます。
この日は3城と予定し早めに家を出てきたので到着したのもまだ午前中早く、木立ちに降り注ぐ陽の光と澄んだ空気が気持いいです。でも、確かこの道は探鳥路のはずなのですが、歩いてても野鳥の姿カタチどころかさえずりさえ聞こえてきません。嫌われてる?(-_-;)
静まり返った一本道で枯れ葉を踏むサクサクという音を耳にしながらひとり歩いていると、木立ちの合間から右側眼下に麓の景色が見えてきました。左側の眼下には並行して走るアスファルト道路。
道の両側を交互に眺めながらほどなく行くと案内板がありました。
木立ちの中の探鳥路はおしまいで、この裏手すぐには資料館があるようです。
案内板にあった場所(薬師曲輪)から、久留里城三の丸跡の眺望。
ここで簡単に歴史をご紹介すると、もともと久留里城は上総国守護の真里谷城主 武田信長の支城として築かれましたが、戦乱や内紛で武田氏が弱体化すると里見氏が台頭(名前が武田で信長だから強そうなのにねw)。5代義堯(よしたか)が武田の城(古久留里城)と峰続きの今の場所に新城を築城し里見氏の全盛期を築きました。
資料館そばの石碑にあるように、1554年(天文23年)には関東の覇者北条氏の北条綱成率いる2万余騎の来襲を受けますが、義堯・義弘父子はこれを撃退。1560年に再び侵攻された際には長尾景虎(のちの上杉謙信)に救援要請し難を逃れました。ちなみにこれが謙信関東出陣のきっかけとなったようです。
しかし1564年には北条氏に大敗(第二次国府台合戦)し、一時久留里城を奪われますが2年後には奪還。その後下総にも勢力を伸ばし始めますが、1574年義堯が死亡後に家督を継いだ義弘は1577年に宿敵北条氏と和睦します。その義弘も死亡すると次代 義頼は本拠地を安房に移し、久留里城には城番が置かれるようになりました。
秀吉の時代になり、9代義康は小田原北条攻めに参戦を命じられますが、遅参によって秀吉の怒りを買うことになり上総の領地を没収。里見氏は安房一国の領主となってしまい、その後は関東移封となった徳川家康配下の家臣が久留里城を治めることになります。
薬師曲輪から資料館へ向かうと、その途中に建つ「新井白石之像」。
里見氏が安房に戻ると久留里城には家康配下の大須賀忠政が入城。その後1602年には土屋忠直。儒学者 新井白石は、土屋家2代の利直に仕えて青年期を久留里で過ごしたそうです。
資料館裏手の「上総掘り方式 井戸掘りやぐら」。(城とは関係なしw)
上総掘りというのはなんとなーく耳にしたことあるのですが、モノを見るのは初めて。人力で500m以上掘削できるので、東南アジアやアフリカ諸国の開発途上国で今でも使われているそうです。
裏手から回り込んで、資料館正面に到着。
資料館内の記憶がまるでないm(__)m のですが、手元に写真が1階部分しか無いところをみると2階は撮影禁止だったようです。
久留里城は、前述の土屋氏がお家騒動で領地召し上げとなると一時廃城となりますが、それから半世紀ほどたった1742年(寛保2年)に写真の「黒田直純」が久留里藩の初代藩主となり、以後明治維新を迎えるまで9代約130年間に渡りこの地を治めたそうです。
決して目線を合わせてくれないこの人誰かに似ている…。現地でも思い出せなかったけどいまも思い出せない。政治家だったか笑点あたりに出ていたかw なんかモヤモヤした感じでいつまで考えてもキリがないですが、話しはちょうどキリがいいので次回本丸編へ続きますm(__)m