番外編/大多喜城(導入編)
久留里城から移動し車で約40分。大多喜城の駐車場に到着しました。
駐車場にある土産物屋さん。
特産品って訳じゃないみたいですが、さつま芋が干してあります。こういう光景、長閑で大好きです。
大多喜城はこの駐車場から坂を登って5分の道標。早速向かいます。
坂の途中に「大多喜水道」なるものがありました。
その昔『大多喜城下にゃお嫁にゆくな 朝の暗いうちから水くみ仕事 水くみ水くみで日がくれる ♪ 』と歌われたほど大多喜は飲料水に苦労した町だったとか。最後の藩主 大河内正質のころに城山から水を引くことが決定され、1869年(明治2年)11月~翌年5月まで整備工事が行われました。千葉県最古となるこの水道は昭和29年に町営水道ができるまでの約80年間活躍したそうです。
狭いですが子供なら通り抜けられないこともないので、近くにいた家族連れは「パパあっちで待っててー」とちびっこが探検気分でこの中に入っていきました。そんな事していいいのかわかりませんがw。隣の久留里は100名水にも選ばれるほど水が豊富だというのに、少し離れると全然違うものなんですね。
先を行くと案内看板。
説明には、“千葉県指定史跡の上総大多喜城本丸跡に建設された天守閣づくりの特色ある歴史博物館です”とあります。そう、ここ大多喜城跡に建つ建物の正確な名称は『千葉県立中央博物館 大多喜城分館』なのです。千葉県立中央博物館 大多喜城分館 - 千葉の県立博物館
こちらのサイトのQ&Aページには、
Q.大多喜城分館は大多喜城のことですか? →A.通常そう呼ばれています。博物館の外観が天守閣造りになっているからでしょう。
Q.分館の形は、大多喜城の天守閣を再現したものですか? →A.当時残された資料と江戸期の一般的な天守閣を参考に推定復元しました。
と、一見矛盾してるようにもとれる微妙な表現で紹介されておりますw
とはいえ城跡としてはきちんとした歴史があります。大多喜城は1521年に真里谷氏が「小田喜城」として築いたのがはじまりとされて、のち里見氏配下の正木氏が支配。その後秀吉による小田原攻めでの不備で久留里城同様に里見氏が上総国を没収され、代わりに家康が関東移封となると、影の薄いマイナー武将ばかりの千葉には珍しく、かなりの有名人が大多喜にやってきました。
生涯57回の合戦でかすり傷一つ負わず、「家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭に本多平八」との狂歌をもって称賛された家康ひとすじ忠君の勇将。信長からは「花実兼備の勇士」、秀吉には「日本第一、古今独歩の勇士」「天下無双の大将」と称されるなど、その武勇・逸話には枚挙に暇がない戦国屈指のホンマもんヒーロー。また、その堂々たる豪勇ぶりから戦国BASARAでは『機動戦士ホンダム』として活躍しているそうですw
そんな忠勝人気を受けてかどうか、地元もなんだかやる気です。
本多忠勝 インターネット電子署名/大多喜町【NHK大河ドラマ 本多忠勝・忠朝誘致実行委員会】
いやぁ…どうなんだろ。同じ千葉県人としてはあまり言いたくないけど、ちょっと厳しくないか(-_-;)
と思ったら里見も狙っているようですw
里見氏大河ドラマ化実行委員会 | 2014 年、里見氏移封から400年、南総里見八犬伝の刊行から200年を迎えます。
人は自由に夢をみてもいい、チャレンジのない人生なんて。どっちもがんばれ。
そんなこんなで5分じゃ無理だったけど天守風博物館到着。
ということで、1590年(天正18年)本多忠勝が初代藩主となり大多喜藩10万石が成立。忠勝は夷隅川で外堀を固め、当時は安房の里見氏の対する備えから、本丸には3重4階天守、二ノ丸に御殿、三ノ丸には家臣の屋敷、馬場、9つの隅櫓などを配した近世城郭を築きました。参考:zakzak日本の名城
関ヶ原後はその功績により伊勢桑名藩に転封となると、ニ代目藩主として大多喜城は次男忠朝に与えられ、忠朝が大坂夏の陣で討死にすると子が幼少であったため、その代わりに長男忠政の子で甥の政朝が三代目藩主として相続。のち播磨龍野藩に移封される1617年まで、忠勝とその子孫が三代27年間に渡り大多喜城下を整備しました。
こちらは正面入口真裏の駐車場側になります。
とりあえず博物館に入る前に周囲をうろうろしていると、少し離れたところに遺構が残っているようです。
大井戸と薬医門。
どシロート城郭ファンとしては、他にどこみたらいいのかよく解らないのでとりあえず降りて見てきます。