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だらり100名城めぐり

だらだらと日本100名城めぐりします

017城目 45/岡崎城(満腹天守編)

017城目 45/岡崎城(岡崎道程編)

017城目 45/岡崎城(龍伝説と東隅櫓編)

017城目 45/岡崎城(戦国ヒーロー編)

017城目 45/岡崎城(本丸途上編)

1日目11時50分。

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岡崎城はさほど大きな城郭ではないですが、それなりに見どころが多く予定より時間が掛かってしまい(家康館が流し見でもそれなりに時間喰った)入城して2時間かかってやっと天守に到着。岡崎城天守は龍城神社のすぐ隣にあります。

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岡崎城天守閣サイトをみるに家康時代に天守はなく、家康が関東移封後に豊臣家臣 田中吉政が入城し近世城郭を作りました。関ヶ原以後は本多康重が岡崎に転封され、1617年(元和3年)康重の嫡子 本多康紀が城郭を大改修して3重4階の天守を築きます。明治期の廃城令によって天守は1873年(明治6年)に解体され、現在の天守は1959年(昭和34年)に鉄筋コンクリート造で再建されたものになります。

天守前には「人の一生は重荷を負いて」の家康遺訓碑。由来説明板によると、家康公遺訓を終生座右の銘とされた岡崎銀行創立者 加藤賢治郎翁が岡崎市へ寄贈されたものだそう。それにしてもこの遺訓碑、妙に気になるカタチ…。

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ホントに気になったのでちょっと調べると、こういった「亀の形をした石碑の台座」は中国でよく見られるもので『亀趺(きふ)』というのだそうです。じゃあ亀趺ってなんやねん!とググると、亀趺の下にいるどうみても亀っぽいのは『贔屓(びし)』というそうで

中国の伝説によると、贔屓は龍が生んだ9頭の神獣・竜生九子のひとつで、その姿は亀に似ている。重きを負うことを好むといわれ、そのため古来石柱や石碑の土台の装飾に用いられることが多かった 出典:贔屓 - Wikipedia 竜生九子 - Wikipedia

とあり、亀に似ていますが実は龍の子供。しかも「重きを負うことを好む」M性の強い神獣だったのです。

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そう言われるとどことなく嬉しそうw

別名「龍ヶ城」の地で、「人の一生は重荷を負いて」の遺訓が刻まれた石碑を「重きを負うことを好む」龍の子供が背負ってるとかダブルミーニング的なものが隠されてるなんて、なんかやるなぁ岡崎城

こっちは家康公遺言が刻まれた石碑。『天下は一人の天下に非ず、天下は天下の天下なり』

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家康が病床で外様大名に語った言葉だそうです。やっぱり今際の際に残す言葉は大事。 

家康の言葉をかみしめた後は、天守前に大きく育った二本の松に「くっそ、この松っ(`Д´#)」と悪態つきながら強引に写真を撮って内部を見学。

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天守1階の受付で17城目スタンプゲット。館内撮影禁止なので写真OKな5階展望室より。岡崎城天守閣 展示概要

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大きな金網フェンスが眺望を邪魔してちょっと悲しいですが、こちらは天守正面。

逆90度に角度を変えて、手前龍城神社から多目的施設の巽閣方面。

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そしてさらに逆90度回り天守裏手北側の眺望の先には、徳川家・松平氏菩提寺である「大樹寺」があり、この大樹寺から岡崎城を結ぶ約3kmの直線は「ビスタライン」と呼ばれる歴史的眺望になっています。

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三代将軍家光が、寛永18年(1641)、家康の十七回忌を機に、徳川家の祖先である松平家菩提寺である大樹寺の伽藍の大造営を行う際に、「祖父生誕の地を望めるように」との想いを守るため、本堂から三門、総門(現在は大樹寺小学校南門)を通して、その真中に岡崎城が望めるように伽藍を配置したことに由来しています。また、歴代の岡崎城主は、天守閣から毎日ここに向かって拝礼したとも伝えられています。出典:ビスタライン(大樹寺から岡崎城を望む歴史的眺望) | 岡崎市ホームページ

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と説明加えて北側から望むも、広角カメラの泣き所で遠くが見えません…。岡崎城大樹寺で実際に見てくださいm(__)m。またこの眺望ライン上は特別な規制などがなく、高い建物を建てないようにと独自に市民の方々が配慮し守られてきたとのこと。すばらしい。

あと「ライン」つながりで、ネットで見てたら出てきたのがこれ。

レイラインとは聖地が直線上に並んでいる事象

家康が最初に葬られた久能山東照宮では、家康の神廟は西を向いて建てられました。久能山東照宮から西方には家康の母が子授け祈願をした鳳来寺、そして生誕地である岡崎城を経てへとたどりつきます。太陽が東から西へと沈み、また東から昇るように徳川家の繁栄・再生を意味した【太陽の道】と言われています。

それと同様に、久能山東照宮から北東方向への直線方向には、富士山および徳川氏発祥の地である世良田東照宮を通り日光東照宮へと続く【不死(富士)の道】江戸城からは、北極星の方角へ向かうと日光東照宮に辿りつく【北辰の道】と、これら3つが「家康のレイライン」。

家康自身が神になろうとしたのか、亡くなってのち何者かが考え出したものなのか、はたまた偶然なのか真相は判りません。この手の話しの好きな方、どうぞいろいろ調べてみてくださいm(__)m

日光東照宮の謎 (講談社現代新書)

日光東照宮の謎 (講談社現代新書)

 

それにしてもさすが家康、様々な情報ありすぎてお腹いっぱい。もうここら辺で天守降りますww

 

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天守を出て本丸西側の虎口「本丸埋門跡」を抜けていくと、家康公のえなを奉った「東照公えな塚」があります。 

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「胞衣(えな)」とは胎盤とへその緒のこと。なんで胞衣が塚になるのかと思って調べると、昔は偉い人のものは魔よけになるいった「胞衣信仰」が存在し、神社などに埋められて塚や祠になったそうです。参考:天照大神の胞衣伝説 - 安岐郷誌 今だとプラセンタとかって化粧品材料になったりしてますがw

えな塚を見終って本丸横切り東側へ。こちら青海堀の端から天守最後のワンショット。

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時間も昼過ぎていたのでこれにて本丸を後にし、最後はホンモノの腹も満たすべく城内にある名物八丁味噌料理のお店に向かいました。

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名古屋在住の大事な友人に、岡崎城内で食べるなら絶対「いちかわ」と勧められていたので迷わず隠居曲輪にあるお店へ。平日なので空いてます。

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ここまで雨が降ったり止んだりの妙な天気に加えてヒョウまで降る始末でしたが、店内で温かい田楽定食をいただきパワー充填( ´∀`)食べてる途中、葵武将隊の方々も入店されて隅っこの方で食事されてましたw ごちそうさま、美味しかった(^_^)

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食事を終え、最後は龍城堀にかかる石垣の横矢掛りを目に焼き付け岡崎城をあとにしました。帰りは行きと同様に乙川沿いの河川敷を引き返します。

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すっかり青空になった帰り道では高かった空がますます高くなり、普段見ているものとは全く違う景色に元気をもらって「城めぐり来たぞー」と新たな気持ちで次の城を目指しました。

 

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岡崎城(20150227):戦国幕末妄想度★★★★ ※家康LOVE度★★★★★

天下を獲り大御所となってからの居城とした駿府城も良かったですが、ここ岡崎城は家康愛が駿府城より数段上で、その分なんとはなしに温かみが感じられる城です。やっぱり生まれたてのまだ何者でもない頃を過ごした故郷は本人にとっても忘れ難き場所であり、周りの人々にとっても忘れて欲しくない場所なんだなぁと感じました。40年近く地元で育ち生活している自分も、24時間テレビサライの歌詞に出てくる「いつか帰る」という意味がなんとなくわかったような気がします。城めぐって何感じてんだかw

次、予定より少し遅れ気味で初日2つ目の城へ向かいます。

 

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