読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

だらり100名城めぐり

だらだらと日本100名城めぐりします

番外編/清洲城(古城跡編)

1日目17時30分。

清洲城天守をあとにして、次は五条川を挟んだ対岸にある「清洲古城跡公園」へ。

清洲駅からの行きルートでは最初の橋で五条川を渡りましたが、渡らずにそのまま川沿いを歩いて来ればこの場所に到着するようです。

_MG_8369

周辺案内にもあるように、JR東海道新幹線及び東海道本線の線路によって清洲城跡は左右に分断(´・ω・`)戦国の覇王信長ゆかりの遺構としてはかなり残念な感じになっており、これによって模擬天守も本来の天守跡に建てられなかったとか。

_MG_8373_MG_8377

案内右の古城跡公園入口にある「清洲城址」石碑。ここからだと先がどんな風になっているのか伺い知れませんが、とりあえず進んでみます。

通路の周りは常緑樹の低木が生い茂っており「かくれんぼするにはうってつけだなー」とか、どうでもいいことを考えながらほどなくいくと少し開けたところにでました。

_MG_8385_MG_8378

清洲城の始まりからを説明する案内板。長いんで端折って説明すると、清洲城室町時代尾張守護職であった斯波義重の別郭として建てられ、のちに本来の尾張守護所が焼失したのでこちらに移転し、以来交通の要衝である清洲尾張の中心地になったとのこと。

ちなみに、信長が台頭していく当時の支配体制をいま風に分かり易くすると(かなり誤解はありますがそこをあえて分かり易くということで)、

 尾張守護職 斯波氏 ←県知事

 尾張守護代 清洲織田氏、岩倉織田氏 ←市長

 守護代配下 清洲三奉行 ←警察署長(信長ココ)

とこんな感じで、信長は清洲織田氏配下の清洲三奉行の一家に過ぎませんでした。参考:清洲三奉行 - Wikipedia

ただし世はまさに下剋上で、信長の才覚があればここからの成り上がりは訳ありません。すでに守護職斯波氏は近隣国からの侵攻で弱体化し守護代の傀儡となっており、実権は清洲織田氏(当主織田信友)が握っていました。信長はこれを滅ぼして清洲城へ入城し、これまで以上に斯波氏を傀儡として利用し尾張を統一。のちに美濃の斎藤氏への備えで小牧城に移るまで、ここ清洲城を約10年間居城としました。

 

_MG_8380

織田信長公を祀るお社」はコッチとあるので階段を上がると、お社と二つの碑。

_MG_8384

正直、古城跡公園にあるのってこれだけです。このあと、奥の方もまわってみましたが特に何かあるわけでもありません(隣接したところに「清洲ふるさとのやかた」というお土産屋さん兼無料休憩所はありますが既に閉まってましたw)。

現地では写真に収めた後「マジかーこんなもんかー」と独り言をつぶやき、ものの数分で移動してしまったのですが、なんだか信長公の遺構をあんなにあっさりした見学で終って良かったんだろうか?と帰ってきてから後悔しはじめ、いつものように色々ネットで調べてみました。で、やっと出てきてくれたのがこれら信長顕彰や古城保存の発足当初の話し。

名古屋大学附属図書館サイトで、2010年春季特別展 「尾張の古都 清洲と濃尾地域 -名古屋開府400年記念-」 での展示会資料を見つけました。

f:id:kamomenosuke:20150410122002g:plain

尾張の古都 清洲と濃尾地域 -名古屋開府400年記念(図録PDF:18.4MB)

以下こちらの図録まるパクリで、このあとマジメ話が続きますんでご興味ある方だけでm(__)m

図録によると、事の始まりは元禄年間(1688~1704)に編集・1752年(宝暦2年)完成した尾張藩による最初の藩撰地誌である『張州府志』。郡別の編纂にもかかわらず特別に「清洲志」の項目がたてられ、清洲の沿革・人物・社寺などの事蹟が詳しく紹介されました。これはのちに『張州府志』を補訂する目的で編纂された1844年(天保15年)『尾張志』 にも引き継がれ、かつての「国府」であった清洲への懐古と関心が高まっていきます。※藩撰地誌とは江戸時代に藩が撰述した地誌書。風土記尾張志(おわりし) - 貴重和本デジタルライブラリー:愛知県図書館

こうした中、清洲文化人の代表的存在であった武田源三郎載周(ときちか)は、1829年(文政12年)に『清洲志』を編纂。清洲の歴史と伝承を網羅した『清洲志』は清洲郷土史の先駆けとなります。載周の武田家は、清洲神明町(現・清須市)で酒造を生業とし、宿村締りのために設けられた立合役を勤め、幕末には総年寄、藩の御勝手御用達となるなど清洲宿村政の中心にありました。また、同家は地方文化の開発に先進的な役割を果たした文人を多く輩出したことで著名であり、載周の父 長兵衛載綰(ときつぐ)は清洲俳壇の先駆者であり、次兄 源四郎載正(ときまさ)は、父亡きあとの清洲俳壇を背負って活躍しました。そして清洲への懐古は清洲城跡への歴史的関心をともない、この載正の子、新蔵晨業(ときなり)から代々に渡たる活動によって荒廃した城跡が保護され公園として整備されていきます。

…大丈夫ですかーついてきてますかー(;´∀`)ちょっと家系を整理します。

 源三郎載周(ときちか)→『清洲志』を編纂

 父:長兵衛載綰(ときつぐ)→清洲俳壇の先駆者

 次兄:源四郎載正(ときまさ)→父亡きあとの清洲俳壇を背負って活躍

 甥:新蔵晨業(ときなり)→清洲城跡保護の取組み

続けますm(_ _)m

まず最初に清洲城を信長の城として顕彰し始めたのが新蔵晨業(ときなり)清洲総年寄であった晨業は五条川に埋没していた古塁石を発見し、これに尊寿院雲阿僧正が揮毫した文字を刻んで、1847,8年(弘化4,5年)頃に「右大臣織田信長公古城跡」碑を本丸跡に建てます。

_MG_8382

そして代が変わり、晨業の子 新蔵晨正(ときまさ)は、1854年(安政元年)に清洲古城跡信長公祭を発起。※明治2年に武田から竹田と改姓 また宿場町の清洲宿で本陣役となる林恪が、1862年(文久2年)に「清洲城墟碑」を建てます。

_MG_8383

碑文の内容は、群雄割拠を統一し太平の世を築いた信長とそれを継いだ秀吉の功績を讃え、その創業開基は清洲を本拠として尾張を平定したことに始まること、それゆえ清洲蜀漢の襄陽、唐の太原に比するとし、最後に林が建碑を思い立った経緯が刻まれています。

江戸時代において清洲城は、尾張守護職 斯波氏の居城であると認識されており『尾張志』も「斯波武衛 家居城跡」として紹介していました。それを織田信長の居城としたのは武田家をはじめとする地元清洲の文人たち。彼らの保護活動は信長顕彰として展開していき、清洲城跡を「覇業開創之地」すなわち信長の天下統一事業の起点と位置づけ、清洲城跡と信長の強い結びつきが形成されました。その後、1897年(明治30年)ごろに、晨正をはじめ林良泰、櫛田利和ら清洲の有志が集まり「清洲古城跡保存会」を結成。彼らは城跡の整備・拡張を計画し、信長を祀る神壇造営の構想をたて、信長への奉納和歌を募集するなど、引き続き清洲城跡の保存と信長顕彰に取り組みました。

今でも信長が本能寺にて斃れた6月2日の命日には、毎年社前で「織田信長公顕彰祭」が行われているそうです。清須市観光協会・織田信長公顕彰祭

_MG_8387

そして大正年間に入り、当時の愛知県知事 松井茂が秀吉生誕地の中村、信長本拠地の清洲、家康生誕地の岡崎の跡を史跡公園として整備し、その保存を企図。清洲町もこれに賛同し、大正8年度から4ヶ年継続事業として県が半額補助する形で公園整備が進められ、今に至る清洲公園が1922年(大正11年)に誕生したのでした。

f:id:kamomenosuke:20150411164721j:plain

清洲公園設計図(清洲公園設計案に収録)1917年(大正6年)12月〈櫛田家文書 個人蔵〉図録より

次回は線路向こう側。晨正(ときまさ)の子であり、晨業(ときなり)の孫となる竹田鋹太郎晨明(ときあき)が建設した信長公像を見に行きます。いやーマジメマジメヘ(゚∀゚ヘ)

 

にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ
にほんブログ村


お城巡り ブログランキングへ