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だらり100名城めぐり

だらだらと日本100名城めぐりします

番外編/清洲城(二人の愛と希望の丘編)

番外編 北陸・東海 平城 模擬天守 望楼型

番外編/清洲城(夕暮れ移動編)

番外編/清洲城(古城跡編)

1日目17時45分。 

清洲古城跡を出て、今度は線路をくぐって清洲公園へ。道路には黄色い帯線で「信長公銅像への道」と方向が示してあるので、これに沿って歩いていきます。

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がっつり銅像写真が載った看板で楽しみが半減(-_-;)。まぁわかりやすいけど。

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だいぶ日暮れも迫り、無事に写真収められるか心配になって急いで銅像へ向かいます。 

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清洲公園となる敷地には、明治19年4月に東海道本線が敷設されました。しかしそれにもめげず大正11年に開園した清洲公園は、昭和38年に東海道新幹線の建設用地にかかったり、昭和47年に始まった区画整理で公園西側が拡張となったり、昭和62年には五条川の改修により土地が買収されるなど時代とともに大きく変化していき、今はのちの整備事業により平成11年3月にリニューアルされています。

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信長公の銅像が見えてきました。

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織田信長公26歳、遠く桶狭間を見据え1560年(永禄3年)「桶狭間の戦い」に出陣する姿を模した銅像は、前編で述べたように1847,8年(弘化4,5年)頃に「右大臣織田信長公古城跡」碑を建てた武田新蔵晨業(ときなり)から数えて三代目、孫の竹田鋹太郎晨明(ときあき)1936年(昭和11年)2月建設によるもの。

図録では『中村公園の豊国神社、岡崎公園の龍城神社と同じく公園の中心をなし、公園設置の精神を表すものとして、この銅像の建設を思い立ったという』。

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『除幕式には来賓200余名、清洲小学校生徒1000余名の参列があり、信長の末裔にあたる織田信恒子爵の「感謝の辞」も読まれた。(中略)竹田鋹太郎が除幕式において述べたように"信長の偉大なる事蹟によって我が清洲の名は広く世間に知られるところとなり、信長と清洲は人々が常に連想するほど周知となった"のである。』とあります。

かくして、清洲城が信長の城として定着したイメージは武田(竹田)家の三代にわたる活動によって形成されていったのでしたm(_ _)mおつかれさまでした。

 

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そして濃姫。 

以前は、清洲城天守東の「はなのき広場」なる所にポツネンと建っていたらしいのですが、2012年(平成24年)に信長像の脇に移設。結果、清洲公園は「始まりの地〜二人の愛と希望の丘」と名付けられ『夫婦円満・恋愛・立身出世・必勝祈願』の艱難辛苦なんでもござれなパワースポットとなっております。

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この取って付けた感が…(・∀・)イイネ!!

岡崎城でもありましたが「開運スポット」とか「パワースポット」って便利な言葉です。でもこれで城跡に多くの人が訪れていつまでも廃れることなく残ってくれるのなら、武田家三代の方々も尽力された甲斐があるのではないでしょうか。パワースポットばんざい。

こんな時間だからか清須城では天守も公園でも他の見学者は皆無。信長夫妻に邪魔しても悪いし、まもなく日没時刻で本日の城めぐりはこれにて終了です。 

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寒空にずっとウロウロと外を歩き通しのため我慢していたトイレへw。思いがけず自動ドアでいきなり開いたのでビックリΣ(゚Д゚)

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夕闇せまる清須の街を五条川に沿って歩き、再び駅へと向かいます。 

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二人の愛と希望の丘で「夫婦円満のパワースポット」訪れたことだし、帰ったらたまにはツレアイと鬼ころしで一杯やろうか。

清洲城信長 鬼ころし『飲み友達は、妻です』

自分にとって夫婦って、一番近くて結構遠い他人。飲み友達くらいのほどほどの距離でよろしく。いつも城めぐりに心よく送り出してくれてありがとう。多分だけど、亭主元気でなんとかってやつだね(-_-;)。それでもありがとう。

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 今夜はさっさとホテル帰って早寝。明日も早いぞ。

 

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