だらり100名城めぐり

だらだらと日本100名城めぐりします

020城目 39/岐阜城(じわじわ登城編)

2日目13時00分。

到着したロープウェー頂上駅から、さらに上へあがって岐阜城天守へ。

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とその前に、上がってすぐのところの「ろおぷ亭」でおじさん二人組が焼いてくれるみたらし団子で腹ごしらえ。朝から犬山城への移動中に食べたカロリーメイトだけで過ごしてきたため、少々腹が減ってきました。ですが時間節約で一本食べてすぐに出発。

左へ上がっていくと展望台レストランで、順路は右側の道になります。

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岐阜城のはじまりは鎌倉時代。二階堂行政が稲葉山に砦を築いたのが始まりとされています。戦国時代に城として使われるようになって、一介の油売りから大名へと成りあがり「美濃のマムシ」と呼ばれた斎藤道三の居城としても有名です(その頃は稲葉山城もしくは井口城、金華山城)。

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のちに道三の娘 帰蝶(濃姫)を正室として迎えた信長により稲葉山城は攻められ、以後天下布武の拠点とした岐阜城へと変わるわけですが、その辺の諸々は司馬先生の著書を読んでいただくか 

国盗り物語〈1〉斎藤道三〈前編〉 (新潮文庫)

国盗り物語〈1〉斎藤道三〈前編〉 (新潮文庫)

 

もしくは前編同様「信長の野望イベントムービー」でどうぞ。信長プレイで序盤の美濃攻略時に早々に見れます(といっても1996年発売の天翔記。しかも当時スーファミ版でやってましたw)。

大うつけと政略結婚


信長・帰蝶婚姻 投稿者 unbrightable

うつけの才能を見抜く


正徳寺の会見 投稿者 unbrightable

実の息子と不仲となり、娘婿の信長にあとを託す


親子の相克 投稿者 unbrightable

ちなみに道三側近 猪子兵助藤岡弘、に似てる)はのちに信長に仕え、本能寺の変の際に嫡男信忠に従って二条城で討ち死にしてるそうで、主君滅亡に縁ある武将だったんですね( -人- ) また、これらはあくまで小説またはゲームですので、そこら辺はご承知おきをm(_ _)m。参考:岐阜観光コンベンション協会|織田信長と岐阜 3.聖徳寺の会見と道三の遺言状

改めて、岐阜市が記念事業として建立し「天下第一の門」と名付けられた冠木門からスタート。

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先へ進んでいくと、まず見えてきたのは巨石や石垣が一部残る「一ノ門跡」。

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正直遺構としてはよくわかりませんw が、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで信長の孫であり岐阜城最後の城主 織田秀信が西軍として参加し、その前哨戦としてこの地で池田輝政福島正則ら東軍との激戦を繰り広げています(結果としては籠城するも一日で陥落)。 参考:岐阜城の戦い - Wikipedia

さらに先へと進むと「馬場跡」と呼ばれる場所。

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一ノ門跡から幅3間(5.4m)長さ30間(54m)続いている岐阜城郭内で唯一の平坦な土地で、城詰めの将兵が馬を繋いでいた場所とか、乗馬の訓練をした所と言われています。一説には馬場ではなく矢場であるとも。(現地案内板より)

途中幾つか分岐はありますが、とにかく天守方面へ。

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こちら、折れ曲がった枡形通路となっているのは「二ノ門跡」。 

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天守の南西一段下に二の丸が築かれ、もう一段下に周囲を石垣で高く積みあげた二ノ門が建っていました。前述の籠城戦でも、門内にあった煙硝蔵に火がついて大爆発し、夜空を焦がす火災が美濃・尾張国内に落城を知らしめるところとなったと言われています。(こちらも現地案内板より)

二の丸へ上がっていく手前、左の道には「千成瓢箪発祥の地」とされる秀吉馬印を模した看板がありました。

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秀吉がまだ木下藤吉郎時代、稲葉山城攻めで家臣を引き連れて岩戸口から侵入し手柄を立てた際、城兵を倒した槍先に瓢箪を結びつけ振り回しながら勝鬨をあげたと言われる場所。

とりあえず階段を上がってみると、こちらは金華山 刀根天狗の祠。 

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その向かいにあるのが天狗岩(ちょっと下からだったので木に隠れてるけど)。この上に登って勝鬨を上げ、以来秀吉は瓢箪を馬印にして戦で勝つ度に瓢箪を増やし、千成瓢箪が出来上がったそうです。

ただし、実際に千成瓢箪が秀吉の馬印として使われたという史料は見つかっておらず「賤ヶ岳合戦図屏風」や「大坂夏の陣図屏風」に描かれている豊臣方の馬印は、“金の逆さ瓢箪に金の切裂”と瓢箪がひとつだけ。(下図左から5番目)参考:馬印 - Wikipedia 縁起物「千成瓢箪」 思いも鈴なりに : 地域 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)

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"O Uma Jirushi 7". Licensed under パブリック・ドメイン via ウィキメディア・コモンズ.

これらからも「千成瓢箪」の馬印は、江戸時代後期の「絵本太閤記」などによる後世の作り話ではと言われていますが、いずれにしても、若き秀吉が登って仲間と共に鬨の声を上げた天狗岩はロマンがあります。

話しを戻し、二ノ門をくぐった先の二の丸跡。

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この場所にあった岐阜城跡図は、元禄時代(1688~1704年)のもの。(原図 伊奈波神社所蔵)

Wikiには、最後の城主 秀信が岐阜城落城後に出家剃髪した寺で、かつて信長が稲葉山城を攻め落としたのち寺領を寄進し、門前に楽市楽座を開いた円徳寺が所蔵する岐阜城図も載っていました。

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"Gifujyou11" by 投稿者がファイル作成 - ブレイズマン (talk) 06:48, 10 December 2008 (UTC). Licensed under パブリック・ドメイン via ウィキメディア・コモンズ.

梟雄道三から覇王信長へと引き継がれ、岐阜公園からは遥か遠くに見上げていた岐阜城天守までこのあともうすぐ。

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プレステVITAなんて触ったこともない。もう無理だ(-_-;)

 

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