021城目 38/岩村城(感傷女城主編)
3日目10時10分。
妄想つづき(また説明やらなんやらで長いですw)。
「領民・城兵の命を保証する。それに伴いおつやの方を正室として迎える」
結局は和議を受けたおつやの方でしたが、申し入れ当初はこの城を乗っ取るための方便であり戯言だと相手にしませんでした。しかし、この話しを漏れ聞いた城内の遠山衆と信長五男の御坊丸とともに来た織田家の者とで、それぞれの思惑をはらんだ対立が起こり始めます。さらにはこれから冬を迎えて厳しくなる籠城戦と、何度使者を使わしても現れる気配のない織田の援軍。しかし…
まだ、夫の一周忌も終っていないのに再婚など、とんでもない話だった。おつやは秋山という大将に嫌悪感しか抱かなかった。
おつやの方は逡巡します。
が、武田本隊が徳川の二俣城を落とし(その際も信長の援軍はなく)いずれここも同じ目にあうことが予想される現実がそれを許しませんでした。
自分が秋山という武田の武将と夫婦になると承知すれば、それで城はすくわれる。犠牲になってくれと懇願されているのだ。
おつやの心は動いた。自分さえ我慢すれば多くの命が助かるのなら、夫の一周忌前などと言って拒んではいられないだろう。
そして、抵抗していた河尻秀隆をはじめとする織田家の者らは御坊丸と傅役を残して城を落ち、秋山虎繁率いる武田軍が岩村城に無血入城しました。
和議の条件としてふたりは夫婦となりますが、互いに惹かれていくのはまだこの先少し時間がかかります。虎繁を迎えるおつやの方の心情は
大名の家に生まれた女の立場は、自分の思惑でどうこうできるものではない。そもそもこの地に嫁いできた理由は、兄の織田信秀に命じられたからだった。御輿のようなもので、担ぐ者が進む方向を決めるのだ。(中略)それがいやだというわけではない。女の生き方はそういうものだと思っている。ただ、虚しくなるときはある。
と、虚しくも「おつやは流れに身をまかせただけなのだ」と小説には書かれています。史実も果たしてそうだったのでしょうか…
自分は敢えてそこに否と妄想が膨らみました。 おつやの方は『虎繁の優しさ 』に残りの人生を託したのではないかと。
当時、籠城して落城必至となれば「城を枕に討ち死に」か「領民城兵を助命する代わりに城主及びそれに次ぐものは切腹」をもって開城するのが一般的です。もちろん今回は城主が女性だからこその和睦条件ですが、それでも夫亡きあとに城を預かる城主として戦っているわけですから、切腹を条件にしても何らおかしなことはありません。
また戦況有利にも関わらず、開城条件として『敵将を正室に迎える』というのは敵軍以上に味方から「ちょっとそれってどうなの?」と後ろ指を差されそうなことでもあり、それを飲み込んでの和睦です。おつやの方は、そこに虎繁の器の広さと優しさを見たのではないでしょうか。
そして織田家の女性は美しいのみならず、精神的にも強いことが知られています。政略結婚で小谷浅井氏へ嫁いだお市の方は、姉川の戦いで信長および秀吉に攻められ夫の浅井長政を殺されます。信長の妹として命を助けられるも、のちに秀吉が天下を獲ろうとする際にはこれを拒み敢えて柴田勝家の元に嫁いで、最期秀吉との戦いにおいては勝家とともに自害しました。またお市の娘でのちの淀殿は、天下が家康のものとなるも最後までひとり抵抗し続けます。
女城主として名を馳せたおつやの方も、その気風をもった女性だったのではないかと思うのです。織田家のために3度輿入れするも、未だその美貌を保つ女性であればまだ幾らでも政略としての結婚は重ねられそうです。がしかし、仮に籠城戦を持ち堪え難を逃れたとしても、これまで兄に命じられるまま動いてきたのと同様に今後も信長に利用され続ける人生を送るのか、それとも、いま自分を妻としたいとする男が目の前に現れ、自らの人生を決定することができる城主という立場にいる時「その男の優しさに賭けてみたい」と思うのかは、後者が必然のような気もします。
『敵将と夫婦になる』という普通では考えられないことが起きることこそ、「この世に絶対はない」という人間の不思議さだったり、そこにある強烈な意志だったりを感じてしまいます。
確かにこんな妄想をしながら歩いてたら、上方から簡単に撃たれますね(-_-;)
※ディープな妄想から強引に戻しました。
長いこと爆語りしてしまったため、少し黙ります。
岩村城唯一の三重櫓があった大手門(追手門)跡。
創建800年の昭和60年に復元された「竜神の井」。
「天然のうまさ」だが、生水での飲用は不可w
この先、岩村城の別称「霧ヶ城」の由来ポイント。
敵が強襲した際に秘蔵の“蛇骨”をこの井戸に投じると、たちまち霧が立ち込め城を守ったと伝説が残る『霧ヶ井』。
小説「霧の城」のあとがきにあるように、著者もこの地を訪れています。
岩村城は霧ヶ城と呼ばれたほど、よく霧がかかるという。
なるほどと感心しつつ、濃緑色の山が乳白の薄衣をまとっている光景を見ているうちに、「霧の城」という題名が思い浮かんだ。地味で平凡で、ひねりもない題名だが、儚かったおつやの日々を象徴するようでもあるし、なによりこの目で実際に城が霧に隠れる姿を見てしまったせいか、他の題名に変える気にはなれなかった。
それほど印象に残ったのである。
秋山虎繁とおつやの方が婚姻したと思われるのは1573年。創建者 加藤景廉を祀る城内の八幡宮で、ふたりは誓いを立てたのでしょうか…
小説ではのちにおつやの方のお腹に小さな命も宿りました。この先いつまでも続いていくかと思われたふたりの日々でしたが、この婚姻後に信玄が病死することで状況が一変します。
偉大な柱をなくした武田家は上洛作戦を中止して甲斐へ撤退。その2年後の1575年、「長篠の戦い」で勝頼率いる武田軍が織田徳川連合軍に大敗すると、岩村城は徐々に孤立。勢いを駆った信長は嫡男信忠に大軍を預けて岩村城を包囲します。
勝頼も救援すべく出陣しますが、半年間にわたる攻防の末、虎繁は勝頼到着前に自らの命と引替えに城兵の助命を条件に降伏を申し出て岩村城を開城します。 しかし信長はその約束を反故にし、虎繁と家臣らが降伏受け入れの礼に来たところを捕らえて岐阜に連行。長良川の河原で逆さ磔の極刑に処されました。虎繁享年49。
城に残る武田残党は全て焼き殺され、おつやの方もまた信長に捕らえられて逆さ磔の最期を迎えます。その際、諸説には「我れ女の弱さの為にかくなりしも、現在の叔母をかかる非道の処置をなすはかならずや因果の報いを受けん」と声をあげて泣き悲しみ絶叫したともありますが、自分の妄想のおつや像とは異なります。享年不明。
岩井三四二氏「霧の城」最後のシーン。
おつやはふくらんだ腹に手をあてて、胸の内で善右衛門に語りかけた。
「冥土に参れば、親子三人で末永く暮らせましょうに」
これからまた、善右衛門との新しい日々が始まるのだ。恐れることなど、どこにもない。
河原をゆっくり歩みはじめたおつやの頬を、川風がやさしく撫でていった。
短かくとも濃密に輝いていたと信じたい、ふたりの日々に。
まだ続くから。まだ本丸着いてないから(-_-;)