だらり100名城めぐり

だらだらと日本100名城めぐりします

021城目 38/岩村城(うろつき本丸編)

021城目 38/岩村城(事前準備編)

021城目 38/岩村城(岩村駅まで編)

021城目 38/岩村城(城下町癒され編)

021城目 38/岩村城(資料館到達編)

021城目 38/岩村城(妄想登坂道編)

021城目 38/岩村城(感傷女城主編)

021城目 38/岩村城(本丸到達編)

3日目10時35分。

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虎口の階段を上がり、早く六段壁からの眺めが見たくて一目散に向かっていきます。

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また復元CGをお借りするとこんな風に上がってきて、いま「長局埋門」のあたり。 

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埋門を抜けて、左にあるのが本丸への正門らしいのですが、まずは右側の六段壁上へ。

雨で遠くが霞んでるのが残念ですが、眼下の道もあいまってそれなりの眺望。  

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ひな壇状の石垣を見て、そういえば小学校の卒業文集に「いつかピラミッドのてっぺんに登りたい」って書いたのが思い浮かびました(^_^;)

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そんな古い想い出に浸ってる間に、雨が大粒になってきたぁ(+_+)急ぎます。

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丸太で整備された階段の埋門から、さらに一段高くなった本丸曲輪へ。

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ここからの眺望もまたなかなかのもの。 

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端にあった岩村城歴史方位盤には、見づらいですが『海抜721m』と文字が刻まれていました。

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アレ?717mじゃないの?と思って調べると、昔は721mといわれていましたが、のちの調査で改められ、いまは「岐阜県観光連盟公式サイト恵那市観光協会サイトでは717m」「国土地理院地図では713m」「Google Mapsの標高では710m」となってるらしいです。参考:レファレンス協同データベース 同じ700m台だし細かいことは気にしない。

本丸内にも、山頂に関わらず涸れることがなかった「昇龍の井戸」。

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こちらを含めて岩村城内には大小17の井戸があり、その数は他の山城に比べて圧倒的に多く、これは長らく山上で居住していたことを物語っているそうです。

その他、城址碑など。

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説明板によれば『本丸には納戸櫓など二重櫓が2基、多門櫓が2基が石垣上に構えられて』おり、本丸内部に特段の施設はなく詰城として機能したようです。

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この場所の後ろ側には本丸を守る曲輪として出丸があり、いまは駐車場として利用。 

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改めて辺りを見渡し、本丸内にあった看板。

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秋山虎繁が守る岩村城落城は、武田家終焉のきっかけにもなりました。織田軍に囲まれていた岩村城を救うべく、武田勝頼義弟である木曽義昌に支援を命じますが、義昌は財政的な理由からこれに応じず、岩村城が落ちた後、勝頼は逆に織田からの脅威にさらされることになります。

その後、勝頼はかつて信長が岩村城に送り込んだ五男御坊丸(織田勝長)を返還し、織田との和睦を画策するもうまくいかず、岩村城落城から7年後の1582年、関係が冷え込んでいた木曽義昌が織田へ寝返り、それに激怒した勝頼は義昌家族を処刑して木曽征伐に出陣。これに応じるように信長の甲州征伐が始まったのでした。参考:甲州征伐 - Wikipedia

最期は、信長嫡男の信忠に率いられた織田軍が勝頼を追いつめ、同年3月11日、天目山へ逃亡していた勝頼父子らは自害。これによって武田氏は滅亡します。

自刃
"Katsuyori died at Mt.Tenmoku 02" by 月岡芳年 - http://livedoor.3.blogimg.jp/hamusoku/imgs/8/f/8f644230.jpg. Licensed under パブリック・ドメイン via ウィキメディア・コモンズ.

ちょっと説明長かったですが、信忠軍団に仕置きを任せていた信長は、ちょうど勝頼が自害した頃つまり本能寺の変が起こる80日前に悠々と岩村城に滞在していたのだそうです。

この看板を目の前にして、あえて岩村の人がこれを立てた意味を考える時、かつておつやの方が信長によって逆さ磔で処刑される際に、「我れ女の弱さの為にかくなりしも、現在の叔母をかかる非道の処置をなすはかならずや因果の報いを受けん」と泣き叫んだとされる伝承を思い浮かばずにはいられませんでした。

 

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もうホント長いことお付き合いいただいて申し訳ないのですが、それだけ自分の中に岩村城で伝えたいものがあるのかなぁと思ってます(;´∀`)

次回で岩村城ラストです。

 

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