だらり100名城めぐり

だらだらと日本100名城めぐりします

023城目 04/弘前城(本丸から北の郭編)

023城目 04/弘前城(夕暮れ城桜編)

023城目 04/弘前城(手ブレぎりぎり編)

023城目 04/弘前城(二の丸散策編)

023城目 04/弘前城(天守観覧編)

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天守を見終わり、石垣修復工事の様子を間近で確認。

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うーん、こりゃ大変そうだ( ゚д゚)。これから10年に渡る石垣修復工事の模様は、以下専用サイトにて。

このあとは、本丸から北の郭へと抜ける道すがらに桜鑑賞。徒歩ルートはこんな感じで、昨晩橋の上から撮影するも暗くて叶わなかった「春陽橋」の方へ抜けていきます。

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しばらくは大きな遺構がないため、つらつらと歩きながら撮った写真をバラバラとm(_ _)m 

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城跡によく礎石あるけど、これだけで往時の御殿を妄想するのは相当高度な技術が必要w

本丸内のしだれ桜。

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遠くに見渡すは、今朝からもう何度目かの岩木山

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御殿に住みつつ毎日こんな眺望が拝めるのだから、なんとも贅沢な話し。

とりあえず本丸を出て、北の郭へ下りていきます。

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天守周り以外で、久々にちゃんと眺める本丸石垣。

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こちらの石垣はまだ修復せずとも問題ないようです(・∀・)

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本丸と北の郭を隔てた内濠に掛かる「鷹丘橋」。

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「鷹丘橋」はかつての旧城名に由来しており、1611年(慶長15年)に5重天守を構えた築城当時は、その地名から「鷹丘城(高岡城)」と呼ばれていました。その後1627年(寛永4年)落雷により天守が焼け落ち、その翌年に「弘前城」と改称されます。この橋は1670年(寛文10年)4代藩主信政が、母の屋敷のある北の郭と行き来するために架けたとされ橋の名に由緒ある旧城名を残したようです。

内濠周辺にも、たくさんの桜と花筏

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濠沿いが多くの観光客で溢れる中、内濠では一羽のカモが気持ち良さげに泳いでいました。

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でもエサ探すのが大変そうだw

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鷹丘橋を渡り、北の郭に入ると建っているのが「武徳殿」。いまは休憩所として使われています。

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武徳殿は、明治末期に柔剣道の練習場として建設(当初は寅武場(えんぶじょう)と呼ばれていたとのこと)。1998年(平成10年)から市が行った北の郭整備事業により、2003年(平成15年)に土産物店や喫茶店、休憩スペースを備えた武徳殿休憩所として改修されました。

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朝から歩き疲れたのでちょっと休憩(^_^;)

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入口には十代藩主の頃に書かれた高札がありました。津軽ジョークわかりづらい(;´∀`)

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観光客の方々が休憩している中、隅の方には三代藩主 信義が使用したという駕籠(男乗物)がなぜか無造作に展示w

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駕籠には、津軽家御紋の「杏葉牡丹(ぎょうようぼたん)紋」。

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本来「杏葉牡丹」は公家の近衛家の流れを表す家紋ですが、津軽氏がまだ南部氏の分家「大浦氏」と名乗っていた時代、始祖である大浦光信から三代目にあたる大浦政信が“近衛尚通のご落胤”という伝承を元に、津軽藩初代藩主の大浦為信が戦国時代に窮乏していた近衛家に接近し財政支援を行います。

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その見返りとして当時の近衛家当主 近衛前久は為信を猶子(名目上の養子)としました。このときから為信は本姓を藤原とし、姓を大浦から「津軽」に改め津軽為信と名乗ります。また、近衛家紋の「杏葉牡丹」の使用もこの時に許され、近衛牡丹紋が9枚葉なのに対し、津軽家は7枚葉の牡丹紋を家紋として代々使用しているそうです。

ちなみに秀吉が関白となる際には、関白職に就きたくても家柄が無い秀吉を近衛前久が猶子にして藤原姓を授けており、名目上秀吉と為信は義兄弟。そのような縁から、のちに豊臣家とは浅からぬ関係になるのですが話しが長くなるので割愛m(__)m

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一服した後、北の郭にあった「子の櫓跡」を見学。

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なんかもう写真撮りすぎて、だらだら長くなっちゃったな…この武将コスは誰だったんだろう(;^ω^)

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北の郭の西口券売所から出ると有料区域は終了。この先、城内一番の桜のメッカ「春陽橋」方面は、次回へ続きますm(__)m

 

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