011城目 40/山中城(心残り編)
山中城つづき。
障子堀に心揺さぶられたあとは、ぐるっと堀に囲まれていた西ノ丸へ向かいます。
城内の西方に位置しこれだけの畝堀・障子堀に囲まれた防御拠点ですので、合戦の際には最後まで抵抗をみせた曲輪だった…と思いたい。
奥の方には、土塁で築いた見張り台があるので上がってみます。
見張り台から障子堀を望む。
振り返って西ノ丸全景です。写真右奥のニノ丸方面は、現在修復工事中。
こういう城にひとりで来ていると、なんだかすごく贅沢してる気分(*´~`*)
このあとは、来た道へ戻って本丸方面へ進みます。
途中、堀の整備工事に従事する方々を見かけました、ご苦労さまですm(_ _)m。
ちなみに山中城は、前編に述べた攻城戦の豊臣方先鋒大将「一柳直末」の後裔にあたる一柳貞吉氏(当時子爵)により、昭和5年に史跡指定が計画されたとのこと(山中城跡環境整備事業|三島市)。この一柳直末という武将は合戦中、鉄砲の流れ弾によって豊臣方の名のある武将の中で唯一戦死しています。後年、その子孫が史跡保護に乗り出すなんて何ともいい話し。
間道を先へ進んでいくと広く開けた北ノ丸に出ました。特に何もない曲輪ですが、本丸との往来に使っていたであろう復元された木製の架橋が掛かっています。合戦の際には、壊して敵が堀を渡れなくするよう木製でできているのですが、7万の大軍の前にはそんな余裕もあったのかどうか…。
架橋を渡ると本丸跡。ここには天守櫓跡があったので、早速上がってみます。
木々の向こうに見えるのが、架橋を渡る前の北ノ丸。
こちらは櫓跡から本丸を見下ろした景色。
写真上方向が二ノ丸方面、 左方向の一段降りたところが兵糧庫跡です。
二ノ丸は現在工事中のため、最後に兵糧庫跡を見て城跡を下りることにしました。
車を駐めた売店方面への帰路途中、三ノ丸跡には「宗閑寺」があります。
ここ宗閑寺には、山中城合戦で戦死した武将たちの墓が建てられており、多くの北条方武将と共に前述の豊臣武将一柳直末の墓もあります。往時は敵味方だった者たちが、今ではその区別なく静かに眠っています。
そして寺を出る際に撮ったこの写真が、キットレンズ最後の1枚。あとは以下の通り( ;∀;)
山中城(20141123):戦国妄想度★★★★★ ※城ヲタ充実度★★★★★
本来であれば、このあとは城の南西方面にある見所のひとつ「岱崎出丸」のすり鉢曲輪を書きたかったのですが、書くに書けないのが非常に心残り(/_;)
売店駐車場でトレッキングシューズを脱ぐ際にレンズをやってしまってからは、一応岱崎出丸を見には向かったもののシャッター切れないため撮影かなわず、なにより不調になったカメラに焦りまくり、そっちに気がいってしまって自身何を見たんだかほとんど覚えていません(ノД`)。なので、この場所は後日必ずリベンジ訪問したいと考えていて、それまでに山中城を手っ取り早くもっと知っておくのに良い本はないかと物色していたら、この城を題材にした小説がありました。
…ですがAmazon中古本で5,795円(´ε`;)…。ちょっと決心がつかなかったので、これはゆっくりブックオフで探すことにし、おなじ著者の本でこちらを購入。
山中城を含め戦国から幕末までの様々な城を扱っているので、他の訪城時にも役立ちそうです。
マジメかwww