だらり100名城めぐり

だらだらと日本100名城めぐりします

番外編/長篠・設楽原古戦場(馬防柵編)

鳥居駅から豊橋方面へ2つ進み、「三河東郷」駅。

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無人ですが駅舎は鳥居駅よりもちょいグレードアップ。しかもこの場所の目玉を主張するかのように、飾りではありますが「柵」が設けられています。

すぐ横には案内図があって、見ると駅舎を含め辺り一帯全てがかつての設楽原決戦場 ( ゚д゚)へ~。中央の赤丸部分、敵と対峙する武田軍の只中に「設楽原歴史資料館」はあり、ここから徒歩で向かいます。  

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事前に調べたところでは駅から資料館まで約15分。さほどの距離ではないはずですが、見知らぬ土地で誰ひとりすれ違わずトボトボと歩いていると、時間過ぎるのが遅くてやたら遠く感じます…。

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そんな中、道中にはこういった史跡に関する案内板が幾つも立てられており気が紛れます。ここら近辺の地名は武田家臣団で馬場信房と双璧をなす、武田四天王のひとり山縣昌景にちなんでいるとか。

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赤備えの面頬がかっちょいい(´ー`*)。その最期は長篠の戦いで敵への突入を試み、体中に銃弾を浴びて討死。享年47。

そんなんしてる間に資料館がみえてきました。駅からほぼ真っ直ぐの道なのに、あまりに着かなくて道間違えてるのかと(´ε`;)。途中、一度引き返そうかと頭をかすめましたが思いとどまってよかったw

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右へ折れて坂道を150m上がると資料館に到着し、早速見学します。館内撮影OK。 

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入ってすぐには最大級の大鉄砲がお出迎えです。長篠の戦いといえば信長の「鉄砲三段撃ち」で有名ですが、この大鉄砲は戦国時代のものではなく、明治維新後の西南戦争で使われたと伝えられているものだそう。長さ3.32m、重量72kg。こりゃ鉄砲っていうか大砲クラス。

「設楽原の戦い」コーナーには当然スネさん。

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明治時代に描かれ、名古屋陸軍幼年学校の生徒集会所にあったものを設楽町出身の教官が持ち帰り保管していた「鳥居強右衛門 城に向かって叫ぶの図」。さほど価値はないかな…。

その他、館内は日本一の数を誇るという火縄銃がこれでもかと展示されています。しかし自分にはどれも似たように見え(もちろん見る人が見ればそんなことないんですがw)ちょっと退屈だったかも(;´∀`)

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サックリと資料館を見終え、少し陽も傾きかけてきたので早速次の目的地に向かいます。 

途中、武田家武将 甘利信康の碑。「設楽原古戦場いろはかるた」によると、敗戦必至で総退却となった際に立ったまま切腹して果てたとのこと。享年不明。

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小高い丘の上にある資料館から10分ほど降りていくと、復元された「馬防柵」が見えてきました。

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「馬防柵」とは、当時戦国最強とうたわれた武田騎馬軍団に対抗するため、長篠・設楽原合戦において信長が考案した野戦用防御柵。この柵の内側から「鉄砲三段撃ち」で武田軍を迎え撃ったとされ、地元「設楽原をまもる会」の方々が長篠合戦屏風図に描かれてるものを参考に再現されています。

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ですが、近年では聖徳太子の有名な肖像画が全くの別人でしたとか、鎌倉幕府は「いいクニつくろう」じゃなくて「いいハコつくろう(1185年)」やら「いいクレむかえる(1190年)」だったなどと、私が学生時代に習った歴史が色々と覆されているようで。

そういや“レキシ”こと池ちゃんと足軽先生は「いい暮れ迎える」って歌ってたw

で、それらと同様に10年ほど前からは長篠の戦いでの鉄砲三段撃ちは偽りだった』という説が一般的なようです。

ちなみに、昔の通説が見直され始めるきっかけを作った軍事史研究家 藤本氏による関連書籍。

信長の戦争 『信長公記』に見る戦国軍事学 (講談社学術文庫)

信長の戦争 『信長公記』に見る戦国軍事学 (講談社学術文庫)

 

また藤本氏同様に「三段撃ちおよび武田騎馬隊虚構説」を主張する歴史家 鈴木氏の著書。Amazonの書評をみると、反対意見には痛烈批判される方のようで、まるで言い伝えられている信長のような性格w

このお二方は、これまでの通説を否定した書籍を幾つか共著で出されています。

しかし!

昨年、両氏の「通説否定説」をさらに否定した「三段撃ちも騎馬隊もあった」とする新説が、歴史学者 平山氏により発表されました。

長篠合戦と武田勝頼 (敗者の日本史)

長篠合戦と武田勝頼 (敗者の日本史)

 
検証 長篠合戦 (歴史文化ライブラリー)

検証 長篠合戦 (歴史文化ライブラリー)

 

 

当然これを阻むべく藤本陣営からも「再検証」と題されたものが、ついこないだ刊行されたばかりw 

再検証長篠の戦い

再検証長篠の戦い

 

いずれもAmazonの書評だけで楽しんで書籍未読の自分がアレコレいえる立場じゃないですが、織田・徳川連合軍vs武田軍さながら、「三段撃ちは無かった藤本・鈴木連合軍」vs「いやあったんじゃね?平山軍」でノーガードのしばき合いヽ(`Д´)ノヽ(`д´;)ノ

400年経った今も長篠の戦いは続いておりますww

 

事の真相は学者先生にお任せするとして、歴史好きドしろーとは馬防柵で屈託なく妄想に浸ることに(・∀・)

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天正3年5月21日、信長・家康連合軍3万8千と武田軍1万5千の軍勢がここ設楽原に集結。はじめ、家康へ向け信長が3万の援軍を引き連れてきたと知った武田四天王は撤退を進言したとされますが、武田家総領 勝頼は決戦を決断。重臣たちは敗戦を予期し、一同で別れの杯をかわし決別したともいわれています。

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いろはかるた「えんえんと 柵木岐阜より 担ぎくる」。当時、設楽原周辺はほとんど低木で覆われ柵となるような丸太がなかったため、柵木は織田軍が岐阜から運び入れたとのこと。

柵の前面には堀、後ろには身を隠すための土塁が施された三段からなる「鉄砲構え」。 これらの柵の後ろから、三千の火縄銃が火を吹いたのか否か…

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いろはかるたにもあるように、武田武将 土屋昌続は突破口を開こうと馬防柵に単騎で向かうも、鉄砲隊の一斉攻撃により討死。享年31。 

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戦いは早朝から約8時間続き、結果武田軍は名立たる重臣をはじめ1万人ともいわれる兵を犠牲にし(1千人という説もあり)、設楽原の大地に累々の屍を築くことになります。

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三段撃ちの真偽はともかく、400年前、信長・家康・勝頼と戦国の三雄が相見えた設楽原の景色を少し高いところから馬防柵越しに眺めます。…信長の天下布武を決定づける一大決戦絵巻が脳内を駆け巡りつつ、そういや16時間前はカラオケではしゃいでたなーオレ。と思い返してしばし脱力( ゚ ρ ゚ )ボー

少し気だるくなった体を引きずり、このあとは設楽原に散った名も無き人々の鎮魂の地へ向かいます。

 

おまけ。

池ちゃんは美メロのいい曲ばっかです。ライブ行きたい。

歴史への愛あふれるふざけたスタンスが大好き。

 

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