だらり100名城めぐり

だらだらと日本100名城めぐりします

012城目 25/甲府城(気負い込み編)

新年一発目は年をまたいで静岡・山梨4城めぐり続きから。

静岡から移動しホテルで1泊。甲府鳥もつ煮で夕食を済ませて早めに就寝し、夢など全く見ることもなく深い睡眠がとれたおかげで疲れも癒え、本日も山梨で2城を訪城します。昨日山中城でカメラが逝ってしまったので、この日はスマホカメラを使用。昨年10月に買い替えた「SONY Xperia Z3」の広角25mmレンズ、逆光補正HDR機能にも対応した「プレミアムおまかせオート」撮影です。要は押すだけ(スマホだから触れるだけ)。現場ではため息まじりで撮影してましたが、帰ってから確認すると自分の一眼レフでの写真よりいい感じ(;´Д`)。ひとつ気をつければよかったのは、アスペクト比をデフォルトのまま16:9にしてしまったこと。実際4:3の一部を切って16:9にしてるらしく、4:3撮影の方が広角効果はもっと得られたようです。

…というわけで、今後自分は一眼レフカメラを携える資格があるのだろうかと自問自答しつつ、甲府城からめぐります(-_-;)

 

早朝ホテルをチェックアウトし、まずは城めぐりの安全祈願に、甲府駅南口の信玄公像へ向かい吉高由里子ばりに「おはようごいす」とご挨拶。

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しかし、ご尊顔が陰になって「ワシと甲府城は全然関係ないじゃんねー、こぴっとしろし!」と言ったかどうだか、いまひとつ表情が伺いしれない…。一眼レフならもっとちゃんと撮れたのに(・3・)と負け惜しみを言いながら、早速甲府城へ向かいます。

駅から歩いて5分、城内の高石垣が望める出入口にすぐ到着です。

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甲府城跡は現在「舞鶴城公園」として24時間開放されており、5つの出入口があります。まだ朝早く時間に余裕もあるので、城の周囲を歩いて他の入口を見て回ることに。

城脇の歩道を歩いて行くと、まずは「内松陰門」がありました。

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甲府城はかつて「20ヘクタールほどの広大な城郭でしたが、現在はその一部の約6ヘクタールが公園(舞鶴城公園パンフレットより)」となっています。結構な交通量のある城跡脇の道路を挟んだ向かい側も、往時は城の一部(屋形曲輪)であり、内松陰門はこちら側の二の丸と屋形曲輪をつなぐ門だったようです。

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さらに先を進むと、今度は「鍛冶曲輪門」。読んで字の如く、鍛冶曲輪へと通じる門になります。 

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門横にある案内板脇のすき間から、朝陽に眩しいその先を覗いてみると堀が見えたので、ショートカットしてひょいっと降りてみることに。  

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下へ降りてみると、城跡の中で今はここ一角だけに現存する広い水堀に出ました。向こうの石垣上には美しい紅葉が並び、それらを眺めつつそのまま堀沿いを進んでいきます。

 

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到着したのは最初の出入口のほぼ真裏にあたる「遊亀橋」( 山梨県ホームページからマップ拝借)。往時には無かった橋ですが、城址が公園化するにあたり掛けられた模様。今ではここが正面入口になっており、矢印のように移動してきて橋を渡り、いよいよ城内へ向かいます。

 

※余談(甲府城への思い入れとか)

甲府城は、司馬遼太郎新選組副長 土方歳三を描いた愛読の『燃えよ剣』にも登場するように、幕末動乱期に維新の舞台となっています。

慶応4年(1868年)鳥羽伏見の戦いで旧幕軍に勝利した新政府軍は、勢いそのままに江戸へむけて東進し、土佐藩出身の総督府参謀 乾退助率いる迅衝隊が甲府制圧のため甲府城へ。時勢が新政府軍へと移りゆく中、旧幕軍とともに惨敗した新選組近藤勇土方歳三も、幕府より「甲州を防御拠点とすべく新政府軍よりも先に押さえるべし」と甲州鎮撫の任を受け、先の戦いで壊滅した新選組残党をかき集め新兵を補充し、新たに「甲陽鎮撫隊」として甲府城を目指します。小説『燃えよ剣』の中で、幕臣から「甲州を確保してもらえるなら新選組に五十万石は分けよう」と持ちかけられた近藤は「おれは十万石、これは動くまい。歳には五万石をくれてやる」と皮算用し、司馬遼太郎は『幕府瓦解のときに大名になることを考えた男は、近藤勇ただ一人であったろう』と評しています。

しかし甲陽鎮撫隊は、わずかな新選組出身者と急場集めの兵隊との混成隊だったため、近藤は隊の士気を高めようと行く先々で酒宴を開き、近藤土方の出身地である日野にも立ち寄り歓待を受けるなどし、また天候悪化も重なって甲府進軍に遅れをきたします。その間、新政府軍の乾退助は公家の岩倉具視から「甲州の人間というのは気が荒っぽくて天下に有名だ。ただ、武田信玄の遺風を慕う気持ちがつよい。そこを考えて民情を安んぜよ」との助言により、先祖とされる武田家武将 板垣信方の姓に改め、板垣退助として新政府軍3,000の兵を統率。結果、天朝びいきになった甲州領民にも迎え入れられ、近藤土方よりも先に無血入城し甲府城を接収します。

その頃やっと勝沼まで進軍していた甲陽鎮撫隊は、当初300人いた兵が恐れをなして逃亡するなど100人余りまでに激減。土方が援軍要請に神奈川まで戻っている間に新政府軍との戦いが始まり(甲州勝沼の戦い)、兵力差にくわえて洋式兵法にも精通していた新政府軍に近藤は為すすべもなく、戦闘開始からわずか2時間で決着がついて命からがら江戸へと敗走という結末を迎えることに。

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月岡芳年甲州勝沼駅ニ於テ近藤勇驍勇之図」

その後、新選組幹部の永倉新八原田左之助らと袂を分かち、近藤土方らは再起をかけ千葉流山へ向かいますが、近藤は新政府軍に包囲されて投降、のち板橋において斬首。沖田総司もその1ヶ月後に結核で死亡。土方はこのあと旧幕軍と合流して、最後まで新政府軍に抵抗すべく転戦北上を続けることとなります。

新選組はすでに鳥羽伏見で敗北しましたが、ここ甲州からの敗走により完全に瓦解しました。以下、『燃えよ剣』で官軍への投降を決めた近藤と、反対する土方との袂別のやりとり。

 

歳三は、激論した。

ついに、泣いた。よせ、よすんだ、まだ奥州がある、と歳三は何度か怒号した。最後に、あんたは昇り坂のときはいい、くだり坂になると人が変わったように物事を投げてしまうとまで攻撃した。

「そうだ」と近藤はうなずいた。

「賊名を残したくない。私は、お前と違って大義名分を知っている」

「官といい賊というも、一時の事だ。しかし、男として降伏は恥ずべきではないか。甲州百万石を押えにゆく、といっていたあのときのあんたにもどってくれ」

「時が、過ぎたよ。おれたちの頭上を通りこして行ってしまった。近藤勇も、土方歳三も、ふるい時代の孤児となった」

「ちがう」

歳三は、目をすえた。時勢などは問題ではない。勝敗も論外である。男は、自分が考えている美しさのために殉ずべきだ、と歳三はいった。

 (中略)

「おめえは、おめえの道をゆけ。おれはおれの道をゆく。ここで別れよう」

「別れねえ。連れてゆく」

「歳、自由にさせてくれ。お前は新選組の組織を作った。その組織の長であるおれをも作った。京にいた近藤勇は、いま思えばあれはおれじゃなさそうな気がする。もう解きはなって、自由にさせてくれ」

 

近藤勇土方歳三の二人が、新選組復活を目指し一度は夢見た甲州百万石の要衝であり、また結果として新選組終焉のきっかけの地となる「甲府城」に、いま自分が屹立している…。そんな静かなる興奮を胸中に抱えながら、これ以上の自己陶酔は恥ずかしすぎるので以降なるべく自重しつつ次回へ続くm(_ _)m

 

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