番外編/清洲城(夕暮れ移動編)
1日目16時35分。
初日の予定として岡崎城・名古屋城とめぐり、あともうひとつくらいは城めぐりするつもりだったのが、すでにこの時間。どこの城でも天守や資料館は、大抵16:30~17:00で閉館してしまいます(´・ω・`)。とりあえず名古屋城を見終え、岡崎城から名古屋城までの移動経由駅「金山駅」のコインロッカーに宿泊荷物を預けていたので、一旦金山駅まで戻ることに。
戻る車中でつらつらと考え「早くホテル入ったってやることないしやっぱり初志貫徹で行動しよう」と、予定通り初日三つ目の城へ向かいました。金山駅で荷物はそのままに、名鉄名古屋本線に乗り換えます。
だいぶ陽も傾き始めたころ「新清洲」駅に到着。
目的地は信長ゆかりの城「清洲城」。開館時間は9:00~16:30(受付は16:15で終了)ともう天守には入れませんが、現地には清洲城跡地となる清洲古城公園があるので行って無駄足になることはありません。
夕暮れですしチカンに注意してレッツゴー。
城への案内板どおりに歩を進め「長者橋」にて付近を流れる五条川を渡ります。
春まだ遠い2月末の川っぺりに吹く風は、ひとり旅の身体も心も芯まで冷える(+_+)
川沿いをてくてく歩いていくと、唐突に前田利家とまつのエピソードを語る案内板が現れました。昔NHK大河ドラマになった時に便乗したものでしょうか?たいしたことは言ってないw
案内板をやり過ごして先へと進み、東海道本線および東海道新幹線が走る鉄橋をくぐります。ここも含めて川沿いの道路は、車通りがそれなりに多いわりに歩道が狭いので結構危ない。まぁ橋からここまで歩行者は自分ひとりっきりしかいやしませんでしたが。
くぐった先には、歩行者自転車こっちと案内版。
空には白い月が浮かぶ時間となり、階段を上がると清洲城に到着。約20分ほどの道程です。
当然すでに閉館となっており、施錠された柵の中を見回してみましたが人っ子一人おらず、しんと静まり返っています。あまり柵に取り付いてると防犯カメラにでも映って警備員がすっ飛んできても困るのでほとほどにし、天守正面に架かる赤い大手橋をそろそろと後ろ向きで渡りつつ写真を撮ることにしました。
ただ現場では結構頑張ってたつもりが、帰って確認すると相変わらずの日の丸構図ばかり(_ _;)自身でもあまりに単調で見るに耐えないため、お茶濁しに清洲城のアレコレを織り交ぜながらm(_ _)m
清洲城は、“人間五十年 下天の内を比ぶれば 夢幻の如く也”と幸若舞『敦盛』をひと節舞った信長が「桶狭間の戦い」に出陣した城として知られ、その後松平元康ことのちの家康と同盟関係を結んだ「清須同盟」、本能寺の変後は信長と嫡男信忠亡き後の織田家の跡目について重臣らが話し合った「清須会議」などの歴史の舞台にもなり、若き頃に野望を抱いた信長の本拠地として、長い間尾張の中枢を担っていた城です。
現清洲城は信長が好みそうなカラーリングの天守ですが、Wikipediaによれば
現在の天守は、平成元年(1989年)に旧・清洲町の町制100周年を記念して、清洲城跡に隣接する清須市清洲地域文化広場内にRC造によって建設された模擬天守である。創建当時の絵図が残っていないため、その規模も不明である。そのため、外観や規模は、実在した当時を想像して建てられた。建造された天守は、桃山時代の城を再現するデザインで、江戸時代の漆喰塗廻の白い城とは異なる、装飾に富んだ姿となっている。
とのことで全くの想像上の模擬天守。そもそも信長がのちに築いた「岐阜城」や「安土城」での重層建築物が天守のはじまりの一説とされ、少なくとも信長居城時代の清洲城に天守とされるものはなかったようです。またその後の城主 次男信雄の時に天守は建てられたようですが、以降豊臣秀次や福島正則の統治時期も含め資料として残っているものはありません。
また、この地で有名なのが清洲の黒歴史「清洲越し(または清須越し)」。
これまで、家康の四男 松平忠吉、病死後九男 義直が清洲藩52万石として入府し尾張の中心として大いに栄えていましたが、清洲は地形的に水害に弱いという弱点がありました。豊臣家が籠る大阪城を牽制する新城築城を名古屋の地に決めた家康は、政治的地理的判断から清洲の武士町人・神社仏閣などを含め文化産業の中心機能を果たす城下町を、丸ごと名古屋城下へと遷府しました。これが清洲越し(清須越し)です。
当時、「思いがけない名古屋ができて 花の清須は野となろう」と謡われた通り、400年後の現代の名古屋と清須を比較してもまさに…。
このように「清須同盟」や「清須会議」で有名な城はいま清須市にありますが、天守の名前は「清洲城」。「須」だったり「洲」だったりなんだか訳わかんない、変換めんどくさいよもうヽ(`Д´#)ノとネットで調べてみると、2種類の漢字が共存しているのには色々と理由があるようです。
全国注目で「須」→「洲」 清須と清洲(上) : 地域 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)
今も残る使い分け 清須と清洲(下) : 地域 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)
かいつまんで説明すると、
- 一般的には、清須越しを境に戦国時代は「清須」、江戸時代は「清洲」らしい。
- 本来の名前は鎌倉時代の荘園の名前から「清須」らしい。
- 小牧・長久手の戦いや関ヶ原の戦いで清須が注目されると、文献には「清洲」と記されることが多くなる。これは仏教僧は漢字に意味を求めることが多いため、地形から清い洲と書いたと推測できる。らしい。
- 2004年8月、西枇杷島町・清洲町・新川町合併協議会で新市名は「清須市」に決まった。清洲市にならなかった理由は、清洲町に他の町が吸収される印象を避けるためらしい。
- 1591年、伊達政宗が家康に送った書状には読みから当て字で「清子」となっていたが、家康の返書に「清須」と書かれており、以降政宗も清須と書くようになってちょっと恥ずかしかったらしい。
- 江戸時代後期では、代官や宿場など公が設営・管理するものは「清洲」、地元の開拓地の地名や問屋などは「清須」と使い分けていたらしい。
- 江戸時代までは地元の人は「清須」、外部の人は「清洲」と結論づけようと思ったら、信長の旧臣で清須にも住んでいた可能性が高い太田牛一が記した信長の一代記『信長公記』には、「清洲」が36ヶ所、「清須」は1ヶ所だけしか書かれておらず、専門家の教授も頭をひねっているらしい。
結局よくわかんねーっす(-_-;)。自分で結論付けると、たぶんどっちでもよいと思われw
名古屋も古くは「那古野、名護屋、浪越、名越」など表記され、江戸期は「名古屋」と「名護屋」が併用されていたようですが、明治期に尾張藩が「名古屋藩」に改称したことで表記統一されたらしく。出典:名古屋市 - 地名由来辞典
名古屋が未だに「名護屋」も使ってたら大都市だけにいろいろ困るけど、「清洲越し(または清須越し)」されちゃった街なので、たぶんどっちでもオッケーなんだと思います。自分はそんな懐の広い街 清須市が大好きです。決して書いてるのに飽きてどうでもよくなってきたわけじゃありません。みんなで鬼ころし飲んで信長になればいいじゃん。ヅラ被って飲んで踊れば多分どっちでもよくなるはず。関東でも忘れた頃にたまにCM見かけて吹きます。
次回どうにか立て直して、清洲古城跡公園ご紹介したいですm(_ _)m