012城目 25/甲府城(妄想編)
甲府城つづきです。
まず遊亀橋を渡った入口には、天を見上げた鶴の像。
甲府城は公園の名前にもあるように別名「舞鶴城」です。戦前の公園内には鶴の噴水を設けた池があり、公園の象徴として市民に親しまれていました。戦時中に消失してしまいましたが今から約30年前に再現され、再現当時の鶴は池の噴水としてきちんと活躍していた(くちばしの中に噴水装置がついてる)そうですが、いま現在はその池が撤去されて鶴の像だけが移置され残っています。…なんか経緯がわかりづらいw
ついでに甲府城を簡単にご紹介すると、甲斐武田氏滅亡後、天下統一を成し遂げた秀吉の時代に築城が開始され、豊臣政権 五奉行筆頭の浅井長政・幸長父子により完成しました。徳川の時代になってからは、徳川本家または家臣が城主となり、幕末の大政奉還後に前編の板垣退助が無血入城するまで、ずっと幕府領として存在しています。ということで、とりあえず信玄公とは無関係でごいす。
で、入口近辺から望む東日本最大級の高石垣。早く天守台行ってみたいワクワク(*´∀`)
近寄ってみると、天守曲輪の立派な打込み接ぎ。
季節は11月下旬だったので紅葉真っ盛り。石垣&紅葉のコラボに見惚れつつ、本丸へと続くスロープを上がっていきます。
石垣の終わりの方は修復工事中で、ひとつひとつの石垣に印が貼ってあります。なにをどう修復するのは判りませんが、すごく手間が掛かりそうなのだけはなんとなく想像できます。※帰ってからネットで調べてたら少し詳しいことが載ってました。
石垣が終わると坂下門跡。前方には武徳殿と呼ばれる施設がありますが、あまり城とは関係ないみたいなので、石垣の裏側へ回っていきます。それと右上にやたらと目立つ尖った塔も甲府城とは無関係。
この尖った塔は「謝恩碑」というもので、山梨県では明治末期に山林荒廃によって水害が相次ぎ、その対策として県内にあった皇室の御料林が明治天皇によって下賜された際、県民の感謝の念を表すため大正9年に建設されたそうです。甲府で一番目立つところへ、しかも見慣れない古代エジプトのオベリスクを模したものですから目立って当たり前ですね…。
小田原城の天守台跡にあった観覧車もそうですが、日本がまだ貧しかった時代、過去の遺物の象徴である「日本の城」を文化的遺産として後世に残そうなどという意識が希薄だったのも無理からぬこと。元来新しモノ好きの国民性もありますし、当時は欧米に追い付け追い越せに精一杯でそんな先のことまで考える余裕もなかったでしょうし…まぁ致し方なし。
話しは戻り、本丸へと続く石段を上がっていきます。
石段の上には、明治初年に取り壊され昨年140年ぶりに復元された「鉄門(くろがねもん)」。
本丸の南側に位置した鉄門を見おろすかのように、すぐ脇に立っている謝恩碑とのツーショット…。
しかし、堂々たる鉄門だけなら日本の城門のある秋景色ですが、皇室へ捧げたオベリスクが一緒に写ると無国籍のどーにも締まらない絵に…(;´д`)。前編を引きずりこの絵を深読みすると、錦の御旗を掲げた皇軍たる新政府軍が、幕府直轄領であった甲府城に無血入城し、まさに「尊王討幕」の新時代到来を象徴したかのような光景…。いやいや深読みしすぎかw
とりあえず鉄門をくぐり、本丸跡へ。
綺麗に芝で整えられた本丸跡には天守台の石垣と対峙するかのように、目にも鮮やかな1本の赤モミジが。
モミジは全身を深紅に染めてぽつねんと立ち尽くしているようであり、はたまた睨みをきかせて周囲を圧しているようでもあり、その威風堂々たる立ち姿は、土州迅衝隊総督 板垣退助が纏った「赤熊(シャグマ)」の毛付き陣笠のようにも見えてきて、もう妄想癖がどーにも止まりませんww
※ちなみに司馬遼太郎『燃えよ剣』"勝沼の戦い"の章でも、『北村長兵衛は赤毛のシャグマをなびかせて、柵にあゆみよった。』『原田左之助がのびあがった。「近藤先生、赤のシャグマだとすると、土州の連中ですよ」薩州が黒、長州が白、土州が赤、ということにきまっている。』との記述がみられるように「土佐は赤熊」とずっと思っていたのですが、今回改めて調べてみると、どうやら各藩に定まった色はなかったようで、しかもこれらは江戸城無血開城(1868年4月)の際に官軍が押収してから使用したらしく、それ以前の使用は時代考証的に誤りのようです。ちなみに甲州勝沼の戦いは3月。司馬先生…(゜_゜)
もとい。またまた話しを戻して、天守台の石垣。
朝のよく澄んだ空気の中、小高い本丸跡からは甲府の街並みや遠くの山々がよく見渡せます。
あそこに上ればその景色はより一層キレイだろうと、往時には近藤土方が見渡すことが叶わなかった景色を眺めに、いざ天守台へ。
次回しつこいほどに天守台まわりの写真が続きますw