020城目 39/岐阜城(資料館&下山編)
2日目13時35分。
1973年(昭和48年)に大河ドラマとなった「国盗り物語」を記念し、地元企業の川島紡績の全額寄付によって1975年(昭和50年)に建設。彦根城を参考に昔の武器庫・食糧庫を隅櫓城郭造りに復元したものだそうです。参考:岐阜城 - Wikipedia 岐阜城/観光コンベンション課/岐阜市公式ホームページ
道三は平幹二朗、帰蝶は松坂慶子、信長はマーサパパこと高橋英樹が演じていました(もちろんリアルタイムでは見てないです)。やっぱり大河はこういう骨太な感じががいいなぁ…
早速館内へ入って係りのおねーさんにスタンプお借りし、20城目を無事にゲット。
こちらもフラッシュNGですが館内撮影はOK。とはいっても、さほど写真は撮っていないので気になったものを少しだけ。
1868年(慶応4年)3月に発布された太政官高札。明治へと改元されるこの年、新政府が旧幕府の高札(庶民に法令を伝達した掲示板)を撤去し永年掲示としたもの。
「一、人たるもの五倫の道を正しくすべき事」。人として五倫の道(儒教における五つの基本的な人間関係)を正しくすることや殺人・放火・盗みなどの禁止が記されています。しかし高札は、伝達手段の整備や印刷技術の向上などによってこれを最後に撤廃されました。参考:五榜の掲示 - Wikipedia
名前がかっこいいのでつい撮った、柳生虎之助さんの柳生流鎖鎌。
いまも古流武術として、全国にいろいろ流派が現存してるらしいです。
こちらは鎖帷子装束のインパクティな黒マネキン。
じっと見てると、眼力による幻術を喰らいそう。
正直、天守内の展示物よりもこっちの方が面白かった。 ただし展示物と岐阜城がどう関係しているのかは不明w
天守付近の見学はこれで終わり麓へと戻ります。
うまいこと縄張りを示せる図がないので解りづらいですが、天守へ向かってきた道とは別の道で戻っていきます。右側の崖上が天守のある本丸方向。
途中、今もよく残る戦国時代のものといわれる本丸石垣。
石垣積みの高い技術から、信長入城後に造られたと考えられているそうです。確かに、よくもまぁあんな所に人力で石を積めるもんだ( ゚д゚)
石垣下には井戸跡。
本丸井戸と名付けられ、もちろん湧水は出ないのでこちらも貯水用です。土台部分のコンクリ基礎や木枠風の囲いは今っぽい。ちょっと中途半端。
先を急ぎ、白壁脇の細道を進んでいくと
展望台レストランに出ました。うぅ腹減った…。しかし、ここでのんびりしていては午後の城めぐりに支障をきたすためグッと我慢。なんて素敵にストイック。
そのまま進んで階段を降りて行くと、来た時にみたらし団子を食べた「ろおぷ亭」に。その裏手から帰りのロープウェーに乗って麓へ向かいます。
次回は、現在も鋭意発掘中の信長居館跡。
日本遺産に選ばれた『信長公のおもてなし』が息づく戦国城下町・岐阜が今後益々盛り上がっていくか否かは、もしかしたらこの場所にかかっているのかもしれません。