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だらり100名城めぐり

だらだらと日本100名城めぐりします

020城目 39/岐阜城(適当観覧&眺望感嘆編)

020城目 39/岐阜城(サクサク移動編)

020城目 39/岐阜城(じわじわ登城編)

2日目13時15分。

二の丸を過ぎて階段を上がっていくと、唐突に復興天守が見えてきました。 

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とその前に、横道へと逸れて少し降りた場所に井戸跡があったので覗いてきます。 

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金華山は山全体が大きな岩の塊であるため湧水がほとんどなく、この井戸は岩盤を刳り抜き雨水を貯めておく貯水タンクの役割を果たしたそうです。ネットでみるとちょっと前までは井戸の名を「金銘水」と呼んでいたようですが、それらが示してあった看板はありませんでした。調べてみると、岐阜市では城跡の看板類(サイン類)の見直しをしており、最近建て替え始めているようです。※以下PDFなのでスマホの方ご注意。2014年3月 岐阜市岐阜市教育委員会 資料による

史跡岐阜城跡サイン計画(1~2章) 

史跡岐阜城跡サイン計画(3~5章)

史跡岐阜城跡サイン計画(6章)

確かに道中様々な看板はありましたがデザインの統一もあまりなく、種類も雑多でした。これが原因で岐阜城が100名城にも関わらずなんとなく怪しい印象があるのは正直否めない…。今後訪れた方々により分かりやすく信頼性の高いサインを掲示することで、岐阜城全体がイメージ向上することを願ってやみません。

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にしても、井戸跡って城の構成要素として必須なのは分かっているのだけどどの城で見てもなんかそそられない…。城郭で大抵のものはグッとくるのだけど、井戸だけは全然興味わかない。自分の先祖は何か井戸で痛い目あってるのかしら?今度「井戸鑑賞のすすめ」でも読んでみよう。どこかでそんな本あったらw

こちら、復興でもグッとくる天守がもう目前になってきました。

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信長時代、麓に天主と呼ばれる御殿(現在も発掘調査中)があり、それとは別に山頂部にも信長の家族や人質が暮らしていたと思われる天守があったようですが、詳しいことはわかっていません。

1569年(永禄12年)キリスト教の布教許可を得るため岐阜に信長を訪ねたポルトガルの宣教師ルイス・フロイスの著書『日本史』によると「上の城(岐阜城)に登ると、入口の最初の三つの広間には100名以上の若い家臣がいて信長に奉仕していました」と記してあり、また、朝廷の経費援助依頼のために訪れた公家の山科言継の日記『言継卿記』によれば「山上の城中で音曲・囃子などの後、信長のもてなしで食事をご馳走になった。その後、城内を信長の案内で見物したが、道があまりにも険しく大変であったので、風景どころではなかった」ともあり、いずれにしてもその後の安土城天守の威容さから、天下布武を唱えた岐阜城天守も豪奢なものが建っていたと想像されているそうです。参考:岐阜城 - Wikipedia 岐阜観光コンベンション協会|織田信長と岐阜 8.岐阜城の景観

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往時の岐阜城関ヶ原の戦いののち家康によって廃城が決まり、岐阜という名も「加納」へと改称されました。また娘婿の奥平信昌(ちなみにスネさんの主君)をこの地に10万国で入府させ、改めて天下普請により山城ではなく平城として加納城を築城。その際に岐阜城山頂にあった天守(この頃の天守池田輝政城主時代に改変されたもの?)の遺構を用いて「御三階櫓」を建てたとされています。しかし1728年(享保13年)の大火で焼失しました。

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"Site of kano-castle2" by 投稿者がファイル作成 - ブレイズマン (talk) 07:38, 10 December 2008 (UTC). Licensed under パブリック・ドメイン via ウィキメディア・コモンズ.

現復興天守は、この加納城御三階櫓の図面や古文書を参考に1956年(昭和31年)に3重4階、鉄筋コンクリート造で完成されたもの。また実は2代目復興天守で、初代は1910年(明治43年)に木造・トタン葺き3重3階で、長良橋の古材を利用した日本初の観光用模擬天守だったそうです(1943年(昭和18年)失火にて焼失)。参考:岐阜城 - Wikipedia 【日本の名城】加納城 家康が直々に縄張をして築城 - 政治・社会 - ZAKZAK 天守閣はあったのか 加納城 : 地域 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)

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なので、道三や信長を全面に押しながらも、その時代のものとはおそらく影も形も違う復興天守が建っている違和感で、岐阜城からなんとはなしに胡散臭さを感じてしまうのかも(自分だけかもしれませんが)。なにせ信長時代のことがよく分からないので仕方ないですけどね…。 

とにかく、ここから信長の天下統一が始まったのは間違いないわけで、広い心で現天守と接することとし内部の資料館へと入ります。

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まず1階は「武具の間」。その名の通り、刀剣や槍または火縄銃などが展示されています。 

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2階「城主の間」。歴代城主の肖像画や関連品などが展示。

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ズボンらしきものを履いた南蛮風の信長肖像画。タイトルは「京都南蛮礼拝堂の織田信長像」とあります。でも、そもそも京都南蛮礼拝堂って南蛮寺のことか?南蛮寺は秀吉時代以降、徹底的に破壊され建物自体はひとつも現存してないはず。南蛮風衣装が妙に似合う信長が気になってネットで調べてみると、川口呉川なる伊勢出身の画家の方の昭和初期の作品だそうです。作者の想像図?参考:割烹旅館八千代:呉川さん、見ーつけた! 川口呉川

こちら「親子の相克」のふたり、左が父の道三と右が息子 義龍。

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頬から生やして顎は剃り上げるヒゲデザインが斬新。

天守付近からの出土品。 

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往時、山頂に天守があったと推察される金鯱や、五三の桐(足利幕府から拝領されたといわれる紋)の瓦などが出土されているそうです。

3階は「信長公の間」。

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複製からそうじゃないものまでいろいろありましたが、もうダラダラしてきたので全部すっ飛ばして4階「望楼の間」へ。いつの間にか信長コスプレの人も一緒に。

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正直なところ天守内資料館は個人的にビミョーでしたが、この最上階からの眺望を見てそこら辺のモヤモヤが一気に吹っ飛びました(*゚∀゚)。この場に来るだけでも天守観覧の価値アリ。

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たなびく雲間に見える岐阜の山々と、城下を迂曲しつつ悠々と流れる長良川の壮大な景観。

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今年4月末には、文化庁が選定する「日本遺産」にも選ばれました。※つい先日ニュースになった「明治日本の産業革命遺産」が登録見込みの世界文化遺産とは別物ですよ。日本遺産です。

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歴史的な価値や意義をわかりやすく伝えるストーリー性があり、その魅力を海外にも発信できることが基準とされ、今回選ばれた18件以降も東京五輪が開かれる2020年までに100件程度に増やす予定だそうです。

岐阜市からは、第1弾選出の18件に『信長公のおもてなし』が息づく戦国城下町・岐阜が入りました。この地においては岐阜城を軸にこれからますます信長色が強くなっていきそうです。

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2020年までに100件…。日本100名水に続いて、日本100遺産の協会設立とスタンプ設置、誰かよろしくm(_ _)m

 

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以上で天守観覧は終了。 最後、天守から少し下った場所に別棟となっている「岐阜城資料館」へ立ち寄ります。

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なぜなら、その場所にスタンプがあるから。

 

最近記事がなげーなー反省。

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