番外編/大垣城(城は城編)
2日目15時00分。
というわけで天守内部へ。観覧料は100円で、しかも18歳未満は無料です。
ちなみに旧国宝仲間の「松江城」は大人560円、国宝&世界遺産の「姫路城」だと1,000円です。大垣城良心的~(観覧規模が違うけどね…)
入ってすぐには記念スタンプ。
100名城じゃない城だと大判のスタンプ置いてあるところが結構多いのだけど、大垣城のは大きさが一見100名城スタンプっぽい(100名城はカタチが四角だけど)。あと、壁に試し押しするのはやめろ(-_-メ)
受付を抜け、階段を上がると1階展示室。
展示物は大垣城に関連したものが小奇麗にまとまり、量もちょうどよい感じ(その前の岐阜城と比較しちゃうw)。
こちらは1959年(昭和34年)の再建天守に乗っていた西側の鯱(旧国宝時代の鯱は天守とともに空襲によって焼失)。この鯱は江戸城や名古屋城に似たものとなっていました。
2010年(平成22年)の改修時に外されて、いまの天守に乗っている鯱は旧国宝時代のものが復元され、もっと素朴なカタチになっているそうです。
なんで最初からそうしなかったんだろ…。
こちらは中2階と中1階?にある資料室。上は関ヶ原の戦いに関する映像が流れ、下ではその前日に起こった西軍唯一の勝利戦「杭瀬川の戦い」を再現したジオラマが展示してありました。
大垣では、2000年(平成12年)に関ヶ原合戦400周年とNHK大河の「葵・徳川三代」放映を契機に地域おこしとして便乗した“あやかり博”「決戦関ヶ原大垣博」なるものが開催されたそうで、ここもテーマ館のひとつとして使用されたそうです。 当時の展示物がそのまま流用されてたりするのかも。参考:大河ドラマ葵徳川三代 決戦関ヶ原大垣博 | 博覧会検索 | 博覧会資料COLLECTION|乃村工藝社
とある方のブログで当時の様子が記事になっていたのですが、天守内にPS2が4台並んで当時のKOEI最新ソフト「決戦」体験コーナーがあったり、「信長の野望」シリーズパッケージ一挙展示があったりと、なかなかの内容(;´∀`)。さすがに15年も前だから隔世の感があるなぁ…
1階をひとめぐりして、2階へ。(歴史家先生みたいな人のインタビュー撮ってました)
戦国から江戸時代にいたるまで武士の日常生活用品などが展示。(あんまり憶えてない…)
そしてここは3階。ベンチが並んでいて、ほぼ休憩室。
改修工事の際の説明パネル。
この改修工事では4階の窓や鯱だけでなく、 瓦の大きさや文様、懸魚(破風の頂部につけられる装飾)に至るまで旧国宝時代のものに忠実に近づけているそうです。だからなんで最初から…。
最後は4階展望室へ。
小さな窓のためさほど明るさはなく、またこの場所には、他の天守では見たことのないスピーカーが設置。
真ん中の白いボタンをポチッと押すと、中年女性の声で旧国宝仲間の松江城への妬みと100名城に選ばれなかった恨みつらみが大垣城の歴史が流れてきます。
う~ん、往時からは変わり果てた景色だなぁ。。
最後に大垣城城主の話しを少し。最初に3重の天守を築いたといわれる城主 伊藤祐盛は慶長4年(1599年)に没し、跡を継いだのが子の伊藤盛正。新城主として張り切っていたところ、ついてないことに翌年関ヶ原の戦いが起こり、周囲は西軍だらけという地理的状況から盛正も西軍に。
ついてない盛正は、その後もとことんついてない。
- 石田三成ら首脳部が大垣城を西軍拠点にしようと、盛正に城の明け渡しを求める →盛正は一度は拒絶するも、圧力に屈し大垣城を明け渡す
- その後は近くの今村城に退去するも、後日東軍が来襲するという情報により要請を受けて援軍に →敗走し大垣城に逃げ帰る
- その後要請があったか関ヶ原方面に進出し、松尾山に陣する →突如、友軍である小早川秀秋勢によって松尾山を追い出され、やむなく笹尾山(一説には松尾山麓)に移動させられる
- 翌日の本戦に参加 →史実のごとく東軍敗走。戦後、改易され没落…
浪人後は福島正則の領地広島で過ごし、関ヶ原の戦いから20年後には加賀前田氏に仕えて1623年(元和9年)に没したとのことです。参考:伊藤盛正の関ヶ原 - 戦国ちょっといい話・悪い話まとめ、伊藤盛正 - Wikipedia
大垣城絡みの話しは、そこはかとなくアンラッキー感がついてまわるな…。でも4重だからとか関係ないから!松江城も4重ですから(5階だけど)。
城は城だよ気にするな(余計なお世話)。ただ今度改修するときは、4重5階にしてみよっか…
次回は、2日目最後の場所へ向かいます。
※タイトル微妙ですみません、何だか思いつきませんでしたm(_ _)m