022城目 05/根城(本丸主殿編)
木橋を渡って登り坂となった虎口の先には、本丸入口となる東門。
門を抜けて、こちらの料金所で入館料250円(博物館とセットだと400円)を支払ったのちスタンプをお借りし、自身東北エリアで最初の100名城をゲットです。
ここで改めて根城を居城とした南部家ついて。
浅学の自分は「南部は“三日月の丸くなるまで南部領”といわれるほど領地が広かった」程度しか知らなかったのですが、今回訪れたことでちゃんと調べると、そう呼ばれたのは根城を築城した南部師行の時代から約200年後の1570年頃の話しで、当主が南部晴政の時代でした。また同じ南部でも師行は「根城南部氏」、晴政は「三戸南部氏」になります。
ここら辺を少しだけ説明すると、平安末期から鎌倉前期の有力な鎌倉御家人であった南部家始祖の南部光行は、源頼朝に与して戦功を挙げて甲斐国(現在の山梨県南部町・身延町)を与えられた際に南部姓を称しました。のちの戦で今度は陸奥国を与えられて八戸市に上陸し、光行の子供たちが今の青森県内にそれぞれ版図を広げていきます。
光行には6人の息子がおり、次男実光が「三戸南部氏」、三男実長が「根城南部氏」の祖となります。当初は三男実長の後継であり「根城南部氏」の南部師行が主流派でしたが、時代を経るとともに「三戸南部氏」が勢力を増していきつつ同じ一族として領土を拡大。
そして1590年(天正18年)には、南部晴政の後継であり、のちに盛岡城を築城する南部信直が天下人 秀吉により所領安堵の朱印状を得た際、「根城南部氏」は三戸南部氏の配下になったとのことです (こういった戦国時代のよくある同族争いは正直名前が似てるから理解するのに苦労する…)。参考:八戸市博物館 考古(鎌倉・室町・安土桃山時代)、南部光行 - Wikipedia
そんなちょっと切ない根城南部氏ですが、ついでに城名も「ねじょう」ってのがどうもインパクトに欠けます…。ホントは八戸にあるから八戸城でよかったんだろうけど、支城でその名前使っちゃってるから「旧八戸城」じゃ古っぽいし、逆に「新八戸城」じゃ訳わかんなくなるし、根本のねじろってことで根城でいいんじゃね?って感じで決まったんでしょうか?(そんなわけないw)
ともあれ、最初は南部氏宗家だったけど、そのうち配下になっちゃった側の「根城」本丸をこれから見て回ります。
MAP上では最後になってますが、料金所すぐそばに茅葺きの竪穴式住居っぽいのが気になり一番最初に見学。
納屋でした。
東北地方や北海道南部の城館では竪穴式の建物跡がよくみられるらしく、食料庫として使われたであろう建物は当時こんな感じだったようです。
次に見えてきたのは、当時の姿そのままに復元された「主殿」。
見た目は、古色を出すために柿渋を塗って仕上げているため地味ですが、特注で製作した昔の大工道具や当時の釘を使って本格的に復元された建物。材質の8割に青森ヒバを使っており、その総工費はなんと6億円(゜゜)
そばには、井戸掘り職人の昇り降りした足掛け穴がよく残っていたという「井戸跡」。
埋められてるw
主殿と併設された建物は、当主が所有する馬を繋いでいた「上馬屋」です。
南部地方は古くから駿馬の産地であり、南部駒の中でも特に優れたものが当主の馬として選ばれたそうで、建物も手斧で仕上げられ床は板敷きになっています。たしかに殿様の乗る馬だけあってどこか気品があり、かなり出来そうな面構え。
しかも展示されているこの馬は、当時埋葬された馬の骨格をもとに復元されているらしく結構徹底されています。 やるなー。
次は「主殿」内部を見て回ります。
「主殿」は、公式行事や来賓との接客に使用された建物。ただ、建物入口が門構えではなく引き戸となっているのが、とても庶民感覚ですw。でもこれも発掘調査から復元されているはずなので当時もそうだったのでしょう。
100名城の認定証。昨年の八王子城以来、久々に見ました。
主殿入口からすぐに見えるのは「詰之間」。
食事の支度をする使用人部屋のようです。
隣りは「茶之間」。うーん、お茶を飲む休憩室のようなところ?
次にあったのは「控え之間」と「ニ之間」。名前からすると来賓の準備室兼待合い室か。
その先ふいに現れたのは、大勢の来賓で賑わっている「広間」。言い忘れてましたが、主殿内では人感センサーで部屋の近くにくると自動音声の説明が流れてきます。
今日は正月十一日。この日は年男が任命される日で、南部家中の重臣の居並ぶ中、年男が当主から茶をいただくところが再現されていました。広間の説明板では、鎧武者が年男、茶を差し向けているのが根城南部氏の18代当主 南部政栄です。この人1543年生まれで仮に当主らしい年齢の30~40歳ぐらいだとすると、1570~80年頃を再現したものになりますね。
発掘調査の状況や南部家の歴史を説明したパネルが並ぶ廊下を過ぎると、最後は「祈祷之間」。
合戦前には、この部屋で加持祈祷を行いました。
ちなみに根城は1334年(建武元年)の南部師行による築城から、1627年(寛永4年)22代当主 南部直秀の代に遠野(現岩手県遠野市)への領地替えによる廃城になるまで、一度たりも落城することはなかったそうです。
とりあえずここまで見てきて、やっと整理ができてきました。
というのもパンフレットや根城のサイトでは「復元された中世の城 根城」とあったり「根城本丸は、城としての機能が最も充実した安土桃山時代の姿を忠実に復元」とあったりで一体どっちやねん!(# ゚Д゚)という疑問がずっと頭の中にあったのです(^_^;)
安土桃山時代の城郭というと、その当時の技術的にも天守や石垣を想像してしまいますが、まだこの頃の東北地方では西国のように石垣を使った城郭を必要とせず(石が採れる産地もあまりなく)、まして南部領内では他国との争いよりも同族内での争いが多かったため、中世から続く柵や板塀をめぐらした城館で充分だったのだと思います。つまり、中世城郭の型式をそのまま保ち安土桃山時代まで使用していたのが根城だったのですね。…あってます?教えてエライ人w
(ちなみに江戸時代はどんなだったんだろ?という疑問が沸かないでもないが…)
間違ってるかもしれませんが、とりあえず自分の中ではそういう結論に達して、次回は少し離れた「中馬屋」から見に行きます。