018城目 44/名古屋城(天守北側編)
1日目16時05分。
天守を降り裏手(北側)へまわると、見えてくるのは「不明門」 。
本丸御殿の大奥へ通ずる秘門とのことで常に鍵が厳重に施され、別名を「あかずの御門」。空襲で天守とともに焼失しましたが、1978年(昭和53年)に再建されました。
いま赤丸のところ。本丸エリア:名古屋城公式ウェブサイト
振り返ると天守はこんな感じに見えます。
不明門を抜け本丸北側の空堀。右をみると前編の展望室からもブルーシートが見えたように、堀の石垣は現在修復工事中。やっぱ石垣って人の手で外してくんですよね?…大変だm(_ _)m
左の天守裏側の堀には前日が雨だったのか少しだけ水が溜まってます。またこちら側に来て目立つのが、恐らく誰もが気になるであろう石垣に沿って縦に取り付けられている雨樋パイプ。
自分としては巨大建築物に這ったパイプが大友克洋の「AKIRA」で描かれるものを連想させ、これはこれで意外と好きなのですが、この縦樋は築城当時からあったと考えられているらしく、再建時にも忠実に再現されたようです。自分でも調べてみると、明治期の写真家 日下部金兵衛による消失前の天守古写真にもしっかり写っていました。
参照:幕末・明治期 日本古写真メタデータ・データベース 長崎大学附属図書館
城の構造として、各層の破風と屋根との間にできる谷と呼ばれる部分に樋があり、そこで受けた雨水が最下層の屋根部分からバシャーっと排出されるところ、最後石垣部分にも縦樋があることで静かに排出が行われるそうです。またこの雨樋にも高価な銅を使うことで徳川の財力を示したらしく、金鯱や銅葺き瓦に銅板雨樋など、天下人となった家康は徳川家の威光を豊臣または全大名に誇示したかったのでしょう。
先へと進んでいくと、かつての天守を地階で支えていた「天守礎石」があります。
昭和の天守再建の際にこの場所へ移し再現したものだそうです。400年前の土木技術でこれだけ巨大な城を造ってしまうのだから人間って凄いなぁ。。
天守礎石の奥の方で外堀を望むと、豊かな水を湛える水堀が広がります。
また、この場所には島根県松江市にあった団原古墳の「石棺式石室」なるものが鎮座していました。現地でも?だったので調べるといろいろ経緯があってこちらに置かれているようです。詳しくはこちらの方のブログにて。とりあえずそっとしておきましょう。
大天守に備え付けれらた屋外エレベーターが見切れてますが、北側からは天守全景が撮れるので眺めていると気分が良く見ていて飽きません(もっと時間があればw)。エレベーターについては賛否両論あるとは思いますが昭和30年代にバリアフリーを導入したことには敬意を表しますし、名古屋にきたら老若男女すべての人に名古屋城を見て欲しいという当時の関係者の想いが込められたものとして、結果的にこれはこれで良しと個人的には思います。
北から西側へ歩きつつ仰ぎ見る大天守。これはイケる。この角度をおかずにご飯三杯いける。
天守台の石垣普請は築城の名手 加藤清正。朝鮮で転戦した際の経験に基づいて考案したと言われ、上部へいくほど角度がきつく裾は曲線上に広がっていく「扇の勾配」技法を用いた石垣は、またの名を「清正流三日月石垣」。やっぱスゲーよ清正、はじめちょっとディスってごめん(・・;)次は熊本城で会おう。
よし。大天守も堪能したし最後はスタンプ&西南隅櫓だ!と先を急ごうと思ったら、こちらにも本丸御殿関係の工場が。
もうあまり開園時間が残されておらず、 御深井丸の端に建つ西北隅櫓も見るのを諦めた(TдT)のですが、ここだけササッと寄ってきました。
本丸御殿復元工事に使用している木材の端材は、おひとり様1個お持ち帰りできます。嗅ぐとヒノキのいい香りがします。
本丸御殿の装飾部になるであろう、木工細工の数々。神は細部に宿る。
そろそろ飽きられてる頃と思いますが、次回名古屋城ラストですm(_ _)m